令和5年の大河ドラマ「どうする家康」には、家康の四天王と呼ばれた猛将本多忠勝の叔父として、本多忠真という武将が登場します。ドラマでは波岡一喜さんが演じています。

この本多忠真という人、どういう人なのでしょうか?
なぜ本多忠勝をここまで育てたのでしょうか?

歴史上の人物を紹介するといっても、私はあくまで東海道歩き旅のプランナー&ガイドであって、歴史の研究者じゃありません。そのため歴史学上判明している事実について語るのは不得手です。だから東海道を歩くにあたって案内する関連地(後述の安祥城は徳川家の父祖の地で、人質竹千代奪還にも関わるのです)との絡みでお話ししましょう。

まずは本多忠勝が武将としてデビューするまでの本多家と松平家との関係から。

ドラマの中で、山田裕貴さんが演じる本多忠勝が、松本潤さん演じる家康に向かって「私の父は、おぬしの父君を守って死んだ。じじさまは、おぬしのおじじさまを守って死んだ」と言うシーンがありました。

どうやら本多家と松平家は、浅からぬ因縁があるようです。

さて、この言葉の意味ですが、本多家と松平家のお話をするといっても、研究者でもない私が戦国時代の一武将についての最新の研究成果を知ることは、なかなか難しいことです。

でも、そんな私でも一応の内容を簡単に知る方法があります。

たいがいの市立図書館には、「寛政重修諸家譜」という本が置いてあります。
江戸時代の徳川将軍の家臣である、大名や旗本などの家の系譜が書かれた本で、彼らの先祖にあたる戦国武将の話も載っています。これなら誰でも簡単に、戦国武将の事蹟を知ることができます。

国立国会図書館デジタルコレクションより
※通常の図書館にあるものは活字で印刷してあります

ただし注意点が。

これは松平定信の命によって編さんされた書物です。内容はそれぞれの家が自ら記して提出されたものがもとになっています。
つまり自分の先祖のことですから、悪く書くことはまずありません。それどころか内容を盛っている可能性まであります。
それを念頭に置いた上で読む必要があるのです。

まずは時を遡り、徳川家康の祖父にあたる松平清康の時代です。
「寛政重修諸家譜」によると、本多忠勝の祖父の忠豊は、松平清康に仕えていました。

享禄3年(1530)に松平清康が宇利城を攻めたとき、敵兵が清康の旗指物を見つけて殺到してきたため、忠豊は清康を守って奮戦しました。この功績によって、忠豊は清康から扇の指物を賜りました。

清康の子の松平広忠の代になった天文14年(1545)、広忠は織田信秀(信長の父)に安城城(安祥城)を攻め取られました。同年9月20日に広忠は兵を率いて安城城の奪還を図りますが、安城城の織田軍と織田信秀率いる援軍との挟み撃ちにあい危機に陥ります。

このとき本多忠豊は広忠を退却させるため、自身は広忠の身代わりとなって織田軍に突入し、安城畷で戦死してしまいました。

忠豊の子である本多忠高、つまり忠勝の父は、天文18年(1549)に今川軍が織田の人質となった竹千代(後の家康)を取り戻すため安城城を包囲したとき、忠高も今川軍に加わり、先鋒として突進して城中に乗り入れようとしたところを、城を守る織田軍の矢を受けて22歳で戦死しました。

安祥城址の碑と大乗寺

ドラマの中のセリフとはちょっと違いますが、祖父の本多忠豊も父の忠高も、松平家のために戦い、戦死してしまったことが「寛政重修諸家譜」には書かれています。

2人は大中寺に葬られ、その後妙源寺に改葬されたそうです。ただ安城城の跡地にある大乗寺にも、それぞれ戦死した地とされる場所に墓が建てられています。

大乗寺の本多忠豊墓
大乗寺の本多忠高墓

本多忠勝は天文17年の生まれですから、父忠高が戦死したとき、満1歳に過ぎませんでした。

そこで忠勝を育てたのが、忠高の弟の忠真です。

忠真は徳川家康に仕え、桶狭間合戦の翌年の永禄4年(1561)に家康が水野信元と戦ったときには、槍を振るって7たび敵と交戦し、ついに敵を退却させたと「寛政重修諸家譜」にあります。槍の使い手だったようです。

「どうする家康」の中でも、赤柄の槍を振るって戦う様子が描かれていました。

元亀3年(1572)12月22日、徳川家康と武田信玄が戦った三方原合戦が起こります。

家康は大敗北を喫し、浜松に逃げ帰ります。このとき忠真は殿軍となり、家康を逃がすために武田軍と戦いました。武田軍を返り撃ちにすること幾たびにもおよび、忠真の従者も多くが戦死しました。それでも忠真は槍でもって敵兵を6、7人殺し、なおも迫ってくる敵に対して槍を捨てて刀で戦い3人を切り捨てる奮戦をしましたが、最後は敵中に突入して戦死したと「寛政重修諸家譜」に書かれています。

同書には戦死の地について書かれていませんが、浜松城の北にある犀ヶ崖には本多忠真の顕彰碑が建てられています。

犀ヶ崖の本多忠真顕彰碑
犀ヶ崖資料館 三方原合戦に関する資料館

「おめえに戦い方を教えたのは、このわしじゃ!」
「ひとりでは死なせん」
「おめえの死に場所は、ここではねえだろうが!」
「俺は伯父上を置いてはいけぬ」
「殿を守れ。行け、平八郎。いけーーー!」

ドラマでのこれらのセリフは、忠真に育てられた忠勝との絆が言わせた言葉だったんですね。

多少盛ってある可能性がある「寛政重修諸家譜」と放送中のドラマ「どうする家康」をもとに書きましたが、祖父と父を失った忠勝を育て、最後は三方原合戦で戦死した武将、それが本多忠真なのです。

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)