東京オリンピックが近くなったこともあり、都内ではいま、多くの建設工事が行われています。

千代田区や中央区など江戸・東京の中心部にあたった場所では、このような工事の際に江戸時代や明治時代の遺構が出土することが少なくありません。

先日、北の丸公園を訪れたところ、オリンピックに向けて日本武道館の拡張工事が行われていました。その工事現場は高い塀で囲まれており、外から内部をうかがい知るのは容易ではありませんが、たまたま入口が開いていたとき中に見えたのは・・・

 

煉瓦造りの遺構!

 

実はこの北の丸公園は、昭和20年まで近衛歩兵連隊の兵営があり、煉瓦造りの兵舎が建てられていたところなのです。明治7年に建てられた兵舎が、昭和41年まであったところです。

はからずもその兵舎の基礎部分が、日本武道館の拡張工事で出土したのでした。

工事の目的からして調査が終わったら取り壊されてしまう運命にあると思われますが、何らかの形で遺構の存在がわかるようにしてもらいたいものです。

一方、東日本大震災で初めての死者を出したことで、その後閉鎖されていた九段会館が、いよいよ解体されるようです。

その後は新しく建てられるビルの外観として保存されることになったようですが、この九段会館もそもそもは軍関連の施設で、当初は「軍人会館」と呼ばれていました。

九段会館の北側の土地はかつては靖国神社の牛ヶ渕附属地と呼ばれ、戊辰戦争や日清・日露戦争で使用された兵器が展示されていた場所でした。しかし、第二次大戦中の金属供出によってこれらの兵器は失われてしまいました。

唯一残されていたのが「弥助砲」と呼ばれる明治初期の小型の大砲です。

若いころは大山弥助と名乗っていた大山巌(西郷隆盛の従兄弟)が改良したといわれる大砲で、これだけが道沿いに無造作に置かれていました。最近では気付く人も少ない存在になっていました。

その「弥助砲」が九段会館の工事によって、いまはこんな状態になっています。

 

え? み、見えてる?!?!

 

ご安心あれ、反対側は透明のプラスチックの塀になっていて、すぐ近くに「弥助砲」を見ることができます。

この場所は九段会館の建て替えにともなって公園になる予定なのだそうです。こちらは新たな場所で今後も「弥助砲」の姿が拝めるようになるのではないでしょうか。

さて、ところ変わって虎ノ門です。かつてはここには江戸城の外堀がありました。

(復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ)

 

この地図の矢印の部分で外堀が屈折しています。これは道路と建物の形にも反映されており、外堀の屈折部分にあわせて、道と建物が斜めに折れています。斜めになっているのは直角に曲がっているよりも車の通行が容易なために、道が造り直されたためです。

ここはかつての外堀の形状がわかる場所として、かならずガイド内容にいれていたところです。

ところが新橋一丁目の再開発によって、この場所は現在工事現場になっています。複合施設となるビルが建てられるそうです。

工事終了後は道があった部分はビル1階の通り抜けになるらしいのですが、ここでも工事中に外堀の遺構が発掘されるはずです。かつては道と建物の形から外堀の屈折部分だとわかりましたが、工事終了後はどうなってしまうのでしょうか。

開発されて町が新しく更新されるのは仕方のないことだと思います。しかし、私たちが現在暮らしているこの町ができあがるまでには、長い年月にわたる変遷をへているのです。

私たちが、たとえ亡くなったとしても両親や祖父母の名前や顔を覚えているように、今の町ができるまでの経緯、現在のくらしができあがるに至るなりゆきを知ることは、たいへん望ましいことです。それらを目に見える形で伝えていくものが文化財です。国や地方公共団体から指定を受けている、受けていないを問わず、これら文化財が存在したことを後世に伝えられるような、そんな再開発後の工夫をしていただきたいものと切に願っています。

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)