月に1回ずつ歩いて京都を目指す「京都まであるく東海道」第2期、4月から6月にかけて3回にわたって開催しました。

第2期では、生麦から藤沢まであるきました。

生麦は漁師町にして東海道の立場(茶屋などがある休憩場所)だったところでもあります。今でも「魚河岸通り」と称する魚屋が何十軒も連なる道となっております。

そしてこれが生麦事件の碑。

キリン横浜工場の門のすぐ脇に当たりますが、ここよりも800メートルほど江戸よりで生麦事件は起こりました。

川崎大師に行こうとしていたイギリス人商人4人が乗馬のまま島津久光の行列とすれ違おうとして、久光の駕籠を見た4人が馬首を返そうとして行列を乱し、薩摩藩士による無礼打ちに遭ったものです。

そのうちの1人リチャードソンは重傷を負い、逃げる途中で落馬をし、動けなかったところをとどめを刺されました。その場所に碑が建てられています。

ちなみにこの碑を建てた人は黒川荘三といって、明治時代にこの付近一帯に石碑を建てまくった建碑マニアです。

道は生麦から子安を経て神奈川宿へと入っていきますが、この付近には浦島太郎の伝説があります。

竜宮城から帰ってきた浦島太郎は、すでに300年が経っていることを知り、再び竜宮城に帰って行くというのが神奈川に伝わる浦島太郎の物語です。一般的な昔話とはすこし異なります。

そして神奈川宿周辺には、浦島太郎の墓や

浦島太郎の足洗いの井戸など

浦島太郎関連のものが多数あります。

浦島太郎は竜宮城で暮らしているので死んでいないはずなのですが、なぜ墓があるのか不思議なところです。私などはこの付近は漁師町で、海で死ぬ漁師も多かったことから、彼らに対する怨霊信仰(不慮の死をとげた者は怨霊となるため、その祟りを抑えるために寺社や供養塔などを建てて信仰する)が姿を変えたものではないかと考えています。

神奈川は江戸時代の宿場町でした。古い建物にはほとんど見当たりませんが、本陣跡には明治天皇行在所の碑が建っているほか、地区センター前には高札場が復元されています。

また、神奈川宿には生麦事件で命が助かった3人のイギリス人が逃げ込んだ寺があります。逃げ込んだ先である本覚寺は、当時はアメリカ領事館になっていました。領事ドールは山門を真っ白に塗ってしまいましたが、その跡が獅子の彫刻に残っています。

獅子が今でもところどころ白いのがペンキを塗られた跡です。

神奈川宿を出ると神奈川台にさしかかります。歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次」の中で、神奈川宿の絵はこの神奈川台が描いてあります。

(国立国会図書館デジタルライブラリーより)

今は埋め立てられてしまいましたが、この台地は崖下がすぐ海であり、絶景ポイントだったことから茶屋や料理屋が並んでいました。坂本龍馬の未亡人お龍も、勝海舟の紹介でここの料理屋で働いていました。

ちなみに海を埋め立てたのは高島易断で知られる高島嘉右衛門。本職は明治の事業家です。鉄道建設用地を埋め立てた際に神奈川台の崖下も埋め立てられました。それで「高島町」なのです。

この神奈川台の入口には金比羅宮があるのですが、ここは秋葉山から高尾山に行く途中の天狗の休憩場所になっていたところで、境内には天狗の木像があります。

神奈川宿と保土ケ谷宿は近いです。5キロくらいしかありません。でも道が途中で途切れているところもあり、もともと道だった場所が今は公園になっています。

 

神奈川宿に着きました。広重の浮世絵の橋は、河川整備によって川の位置が変わったために今はなく、天王町駅前の広場になっています。

(国立国会図書館デジタルライブラリーより)

保土ケ谷宿は金沢や横浜に向かう道の分岐点でした。今も「金沢横町」と呼ばれる道の入口に道しるべが残っています。

第2期の1回目はここまでです。

2回目は1ヶ月後、保土ケ谷宿からつづきを歩きます。

良いお天気です。5月なので保土ケ谷宿の中を流れる今井川にも鯉のぼりが泳いでいます。

保土ケ谷宿では修験道の聖地である湯殿山信仰が盛んだったらしく、宿場のはずれには湯殿山の碑があります。

保土ケ谷宿を出るとすぐに上り坂。ここから藤沢宿までは丘陵地の合間の谷に宿場が設けられていたので、アップダウンのつづく道になります。

保土ケ谷宿から最初にある上り坂が、箱根駅伝で知られる権太坂。ただし駅伝の権太坂はあらたに造られた国道の坂道で、江戸時代の旧東海道の権太坂とは違う道です。

権太坂を登り切ったところが境木です。武蔵国と相模国の境です。ちょうど境目には境木地蔵尊があります。

ここからは坂道を下り、下りきった切り通しになっている道の両側に一里塚があります。

この品濃の一里塚、道の両側に塚の形がそのまま残っているもので、日本橋から始まった東海道で初めて出会うものです。

もう一度坂道を上って東戸塚の駅前を通り過ぎ、さらに坂道を下ります。途中には東海道のシンボルだった「相模のモチ」と呼ばれていたモチの古木があります。

以前に生えていた人家が更地となったため、道沿いから少し奥まったところに移植されていました。

また、この付近には南北朝時代の皇族将軍、大塔宮護良親王の伝説が残っています。たとえばこれは首洗いの井戸。

争乱の中で鎌倉で殺害された護良親王の首をもって逃げた侍女が、この付近の豪族にかくまわれたという伝説があるのです。近くの王子神社は、この井戸で洗った首を埋葬したところだとか。

さて、戸塚駅の手前には「開かずの踏切」がありました。その解消のために自動車用のアンダーパスと歩行者用の大踏切デッキが設けられました。

階段を上る手間は増えましたが、待たずに線路を渡れるようになりました。

この大踏切デッキを渡り終わると戸塚駅。かつての戸塚宿の中にあります。本日はここまで。つづきは6月になります。

 

そして6月。

戸塚宿からスタートです。

でも最初は和菓子屋さんへ。食べ物も旅の楽しみの一つですから。

エネルギーをチャージしたら、いざ出発。

柏尾川の流れる谷間にある戸塚宿では洪水が多く、ご先祖や神様をまつる大切なお寺や神社は、みんな高台の上にあります。

しかも戸塚宿を出るとまたしても上り坂。江戸時代、この坂の上の台地にはところどころに人が住む村があるだけで、この地を通る東海道は、風景はきれいだけれど閑散とした道だったようです。

ここが舞台となった歌舞伎が、「仮名手本忠臣蔵」の中の「道中旅路の花婿」の場。駆け落ちをする早野勘平とお軽が、お軽を奪い取りに来た鷺坂伴内一味を勘平がコテンパンにやっつけてしまう話で、その碑も建っているのですが、私たちの目に飛び込んできたものは・・・

なんと捨てられた歩道橋。

 

江戸時代には寂しい場所だったこの地も、今は立派なバイパスが通っていて、マンションも店もたくさんあります。

途中にある浅間神社の椎の古木を見たり、

旧住友邸で現在は公園になっている俣野別邸を見たりして

坂道を下っていくと、時宗総本山の遊行寺があります。

 

踊り念仏で布教活動をした一遍上人から始まる時宗ですが、ここ遊行寺は見るところがいっぱいです。

銀杏の古木や江戸時代に建てられた中雀門、赤城の子守歌のモデルの板割浅太郎のお墓など。さらには関東の戦乱の始まりとなった上杉禅秀の乱の戦死者を敵味方関係なく供養する国の史跡「敵御方供養塔」、その頃の伝説である小栗判官と照手姫の墓などもあります。

このあたりの石畳の様子は浮世絵にも描かれていて、江戸時代そのままです。

門を出ると、昨年オープンした藤沢宿交流館があります。

今回は遊行寺前で終了。

次回から第3期に入ります。藤沢宿から歩き始めますが、夏の間はお休みです。10月から再開となります。

藤沢は蔵の町でもあります。遊行寺前から藤沢駅に向かう途中にも、家屋の両側に蔵を建てた立派な家が。

このブログに書いている「京都まであるく東海道 第2シリーズ」は毎月第1土曜日に開催しています。ただし現在はお申し込みが定員に達しているため、欠員ができ次第の再募集となります。

また、東海道に関してはお問い合わせが多く、10月からも第3土曜日に「京都まであるく東海道 第3シリーズ」を開催予定です。日本橋から出発して、月1回歩いて京都を目指します。最低人数10人の予定ですので、10名様のお申し込みがあったら開催となります。お申し込みの受付開始までは、もうしばらくお待ちください。

東海道に興味のある方、ぜひ一歩いてみてください。できれば私とご一緒に。お申し込みをお待ちしております!

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)