3年半前に日本橋を出発した「京都まであるく東海道」が、この6月に石部宿まで進み終えました。今は夏ですのでお休みしていますが、10月に再開した後は、草津宿、大津宿をへて11月に京都の三条大橋に到達する予定です。

ところで残る2つの宿場である草津と大津は、戦国時代に足利義昭を将軍位に就けた織田信長が、義昭の副将軍または管領の職を与えると言ったのを固辞して、代官を置いて支配することを望んだ地になります。

信長は義昭に対して、褒美として堺、大津、草津を望んだわけですが、堺は戦国時代に栄えた商業港として知られていますので、そこからの税収が目的だったことは容易に推察できます。

では、大津と草津は?

今でも街や建築が残る草津宿と大津宿の町並み

 

もちろん商売を保証することの見返りとして税を課すという目的もあったでしょう。でも、実際に東海道を歩いてみると、他の目的もあったのではないかと思えてくるのです。

 

東海道を東京側から歩いて行った場合、まず草津宿に着き、それから南下して琵琶湖の南の瀬田川に架かる瀬田唐橋を渡り、今度は北上して大津に到ります。けっこう遠回りです。東海道をあるけば、その遠回りぶりが身をもって実感出来ます。

 

そこで草津から琵琶湖東岸の矢橋(やばせ)湊へと向かい、そこから船で大津に行く、これは楽ちんで時間も短縮できるルートだったのです。(現在はこの航路はありません)

 

ところが琵琶湖には季節によっては西岸にある比叡山から吹き下ろす風があり、船が転覆することもあったそうです。

そこで戦国時代の連歌師宗長は「もののふの矢橋の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」と詠みました。これが「急がば回れ」の語源です。

このように「急がば回れ」と言われた瀬田の唐橋(長橋)は、軍事的には京都・大津方面から見て最後の防壁でした。壬申の乱、源平合戦などの戦乱では、瀬田の唐橋をめぐって激戦が展開され、いずれも勝者が天下を掌握したり都を制圧しています。

瀬田唐橋(長橋)

 

さて、瀬田の唐橋をわたって大津に入ると、そこはどのような地か?

現在(コロナ禍前まで)、大津は京都観光へ行ったのに京都に宿の取れなかった人たちの宿泊地のように思われていましたが、それ以上に大津は京都にとって極めて重要な土地でした。

江戸時代以前には、大津から京都へ行くには、逢坂山、日ノ岡峠、九条山の3つの峠を越える東海道が最短にしてほぼ唯一のルートでした。現在では旧東海道に隣接して国道1号線が通っていますが、このような状況は今もほぼ変わっていません。だから東海道、特に逢坂山越えの道を歩いていると、国道1号線はいつも車で混雑しています。

京都で消費される米の多くは、琵琶湖を使って運搬されて大津の湊に集められ、それが牛に牽かれて3つの峠を越える東海道を使って運ばれていたのです。そのために車石という轍を刻んだ石が、東海道の路上には敷かれていたくらいです。

歌川広重の保永堂板「東海道五拾三次 大津走井茶屋」
大津から京都へと米を運ぶ牛車が描かれている

 

今も東海道を歩いていると、あちらこちらに車石を見ることができます。

復元された車石と縁石などに再利用されている車石

 

そこで織田信長が大津と草津を手中にした話に戻ります。

ポイントは
1 確実に行ける遠回りの道と湖上の流通路
2 天下の掌握には瀬田の唐橋を抑える必要
3 大津は京都への物資供給の要

つまり信長は草津と大津を押さえることで、1の陸路と水路を両方把握でき、2の瀬田の唐橋に敵を近づけることを防げ、3にいたっては京都に根付く勢力が自分に背いたときに、経済的な圧迫を加えることができるのです。

ちなみに信長は京都に向かうときに、草津から大津への航路を利用していることが「信長公記」にも記されています。草津と大津を押さえることで、信長は京都への最短ルートをも確保していたのです。

草津宿近くの矢橋湊の跡に残る石造の船着き場跡

 

大津宿に残る船着き場跡の常夜灯

 

戦国武将たちの多くが農作物による税収を望める領土拡大を望んでいた時代に、商業港であり戦略的な要地でもあった草津と大津の支配を望む、このような織田信長だからこそ天下を掌握するに到ったのではないかと、東海道を歩くことで思いをめぐらせることができるのです。東海道を歩きながら、現在にいたるこの国の成り立ちを知ることが出来る、このような東海道の楽しみ方を、私は是非ともしていただきたいと願っています。

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)