歩き旅応援舎は都内の古地図散歩で知られていますが、もともとは東海道を歩くことで今の世の中ができるまでに培われた文化の大切さなどを知り、それを多くの人たちの伝えることを目的として創立した会社です。

実際にはそれほどの知名度も人気もないので、この目的の達成は道半ばの状態ですが、今回は「東海道を歩いて知る」とはどういうことなのか、その一端をご紹介します。

 

「箱根の山は天下の険」と歌われるように、東海道は箱根の山を越えます。

その箱根の東海道の西坂(箱根峠から三島宿の間)に山中城という戦国時代の城跡があります。

北条流築城術の特徴である障子堀や畝堀が良好に残っていて、最近では城好きの人たちにも人気のお城です。その一角に宗閑寺というお寺があり、そこには天正10年(1590)の山中城攻防戦で戦死した一柳直末のお墓があります。

豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、北条方の前線基地である山中城で、一柳直末は先鋒として大手門を攻め、鉄砲で撃たれて戦死したとされています。直末の首は部下が持って逃げ、黄瀬川のほとりに埋葬されたそうです。長泉町には一柳直末の首塚と伝えられる場所が残っています。

 

一方胴体の方は山中城合戦の終了後、家臣たちが箱根西坂の笹原というところに埋葬し、墓を建てました。ここは江戸時代に新田が開発されて立場(立場・茶屋などがある街道の休憩場所)になったところで、今も笹原新田という地名です。一柳直末の墓も、一柳庵というお寺に残っています。

 

さて、江戸時代になると一柳家は播磨小野藩の大名になりました。3代目当主の末礼は、山中城で戦死した先祖筋の直末の墓が笹原新田に建った茶屋のために東海道上から見えなくなったことを残念に思い、山中城址にある宗閑寺に墓を建て直しました。それが現在宗閑寺にある墓なのです。

(国立国会図書館蔵 東海道分間絵図より)

 

ちなみに宗閑寺の一柳直末のお墓へいく道の入口には、子孫が建てた「史蹟山中城趾記念之碑」があります。

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時は経ち、明治時代のはなしです。一柳家は子爵となりますが、この家の「婿養子」となった人物がいます。なんとアメリカ人です。後に日本に帰化して一柳米来留を名乗ります。建築家にして近江兄弟社の創始者、メンソレータムを初めて日本で売った男、ウイリアム・メレル・ヴォーリズです。

ヴォーリズの妻である満喜子の兄恵三は広岡浅子の婿養子であり、そのため朝ドラ「あさが来た」にもヴォーリズがモデルの登場人物がちらっと出てきました。

近江八幡を拠点に事業家として、また建築家として活躍したヴォーリズですから、その建築物は関西方面に多くあります。私が初めてヴォーリズの名前を知ったのは東海道の水口宿でした。ここにヴォーリズ設計の建物(教会と図書館)があるのです。

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東京にもヴォーリズが設計した建築物はあります。ヴォーリズが結婚式を挙げた明治学院大学の礼拝堂、近江兄弟社東京支社がある駿河台にある山の上ホテルとお茶の水スクエアなどです。

 

一方のメンソレータムですが、現在の販売権は諸般の事情でロート製薬にあり、近江兄弟社は同じくワセリンを原料としたメンタームを販売しています。山中城やヴォーリズのことを今日初めて知った人でも、メンソレータムやメンタームはご存知だったと思います。

 

東海道は今の世の中の様々なものとつながっています。是非ともたくさんの人たちに、東海道を歩く楽しさと有益さを知ってもらいたいと思います。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)