東京と京都を結ぶ東海道はかつて五十三次(大阪へ向かう場合は五十七次)と言われまして、継立により人と物資、いやそればかりではなく文化をも東西に流通させていた道です。

東海道を歩けばわかります。今目の前に見えている物語は、過去に歩いてきたところでも見てきたし、この道の先にもその続きがあることを。

だから東海道のような長距離街道のガイドをするということは、お客様の過去も未来も案内することなのです。このダイナミックさが東海道のガイドをする醍醐味ですし、いかに街道上に連なる情報を拾い上げるかが私のようにガイドを生業とする者にとってのやり甲斐なのです。

さて、令和2年初となる「京都まであるく東海道」は一泊二日で藤枝宿から掛川宿まであるきます。

この区間をより楽しむために、これまで見てきた次のようなポイントを思い出してください。(括弧内は「京都まであるく東海道」に参加中の皆さま用の記載です)

 

柴屋軒宗長

丸子宿の北にある吐月峰柴屋寺
(配付資料 第6期第3回 東静岡~藤枝宿 9~10ページ)

東海道丸子宿の北に柴屋軒を建てて隠棲生活を送った連歌師宗長は島田の生まれといわれています。一説には島田の刀鍛冶五条義助の子ではないかともいわれていますが、はっきりとはしません。

宗長は飯尾宗祇に弟子入りし、宗祇の旅に付き従いました。箱根湯本の東海道沿いにある早雲寺に宗祇の墓がありましたが、同地で病に倒れた宗祇を看取ったのも宗長です。


宗長庵跡


塚本如舟邸跡

松尾芭蕉の友人でもあった島田宿の川名主塚本如舟は、俳人でもあったことから島田に庵を建てて宗長庵と名付けました。現在は宗長庵の跡の碑が、島田駅前に建っています。

 

朝顔日記

江尻宿の法岸寺にある「朝顔日記美雪の墓」
(同第6期第2回 蒲原宿~東静岡 13~14ページ)


法岸寺


朝顔日記美雪の墓と表示の出ている久の墓

歌舞伎・浄瑠璃の「生写朝顔話」は通称「朝顔日記」とも呼ばれていますが、大名家のお家騒動に巻き込まれて養女として入った家を追われ、琴を奏でて旅費を稼ぎながら実家へと歩いて帰った秋月久がモデルとなっています。後に久は御船手奉行として清水に赴任していた旗本山下周勝の妻となったことから、江尻の法岸寺に墓があります。それが上の写真です。

※「朝顔日記美雪の墓」と書いてあるものの、本当は久の墓です。

ところで芝居の「朝顔日記」の方はといいますと、そこは江戸時代のお芝居ですから原型をとどめないまでに脚色されてしまいます。旅をする女性も「美雪」というなになり、三味線を奏でながら恋人を追って旅をつづけるうちに視力を失うという設定です。


当盛見立三十六花撰 唱歌の朝顔秋月の娘深雪

島田で恋人宮城阿曽次郎と出合うのですが、目が見えず阿曽次郎と気付きません。阿曽次郎が大井川の渡しを船で去った後にそれを知り、大井川で入水自殺を図りますが助けられます。そして阿曽次郎が置いていった目薬をさすと目が治り、その目には大井の河原に生えている松の古木が映りましたとさ、というお話です。


4代目朝顔の松

そこで大井川の渡し場にある松の木が「朝顔の松」と呼ばれるようになりました。現在渡し場跡に生えている「朝顔の松」は4代目にあたります。

 

日本最初の有料道路

小田原宿から箱根湯本間にある日本最初の有料道路
(同第4期第2回 小田原宿~箱根湯本 7~8ページ)

小田原から箱根湯本の間の東海道は、江戸時代のものからだいぶ造り直されています。明治8年(1875)には道幅が広げられ傾斜をなだらかにした道路が完成しました。この工事を行った人は、現在国の重要文化財に指定されている旅館を箱根湯本で経営していた福住正兄です。この道は人力車、大八車などから通行料を取ったので、日本最初の有料道路の説明板が箱根町によって設置されています。

ところで、金谷宿から日坂宿へと向かう小夜中山峠は高低差の激しい山道だったため、谷間や山の中腹を通りよりなだらかな中山新道が作られました。


金谷坂の急坂

明治政府が新たに道を開いた者は通行料を徴収して建設費用を回収することを許したので、金谷宿の杉本権蔵らが明治13年に完成させたのが中山新道です。そのため中山新道も通行料を取りました。そこで島田市も「わが国最初の有料道路」と書かれた説明板を設置しています。

ちなみに、この中山新道の開通により旧東海道は通る人が減り、47軒あった茶屋は大打撃を被ったということです。

ところが明治22年に鉄道が開通し、今度は中山新道の通行量が激減し、杉本たちは費用の回収ができなくなりました。そのため結局中山新道は静岡県が買い取ることになります。

車から通行料を徴収するか、通る人すべてから通行料を徴収するかという定義のちがいがあるので、小田原・箱根湯本間と金谷・日坂間の両方に「日本最初の」有料道路があることになったようです。

 

諏訪原城と松平康親(松井忠之)

沼津宿の三枚橋城跡と乗運寺にあった五輪塔
(同第5期第3回 三島宿~原宿 6~7ページ)


乗運寺


松平康親の墓

武田信玄の死後、武田勝頼は徳川家康と遠江・駿河をめぐって激しく争います。その武田方の最前線基地として、金谷坂の上に東海道を塞ぐ形で築かれたのが諏訪原城です。今も当時の土塁や堀が良好な状態で残っています。


諏訪原城跡の説明板


丸馬出(矢印の先)

特に武田流築城術の特徴でもある丸馬出がいくつも残っており、これは圧巻です。丸馬出とは、城の出入口の前に半円形状の防塁を築き、この防塁から城外に敵に射撃を加えつつ、防塁の両側にある出口から塀が出撃して城外の敵を挟み撃ちにするため、城の防御及び攻撃施設です。


今も残る丸馬出の半円形の掘と土塁


諏訪原城の曲輪の跡

諏訪原城跡には近年ビジターセンターが設置され、そこでは丸馬出の形がわかる缶バッチを販売しています。(さめた笑顔ではありません)

いったんこの缶バッチを見てしまうと、上の諏訪原城の見取図の丸馬出まで「さめた笑顔」に見えてしまう・・・

しかし天正3年(1575)の長篠合戦後、時代の趨勢は徳川に傾きます。長篠合戦の3か月後には徳川軍の攻勢に絶えられなくなった武田軍は、諏訪原城を退去して後退します。こうして諏訪原城を手に入れた徳川家康は、家臣の松井忠次に諏訪原城を任せます。このとき家康は忠次に松平姓を与え、以降は松平康親と名乗ります。

この松平康親は後に沼津にあった三枚橋城城主を務め、三枚橋城で没しました。そのため沼津の乗運寺に墓があったのです。

 

菊川の里と浮島ヶ原

浮島ヶ原
(同第6期第1回 原宿~蒲原宿 4ページ)


広重が描いた浮島ヶ原


跡地には今も湿地の一部が残る

原宿から吉原宿の間には、広大な湿地帯がありました。これが浮島ヶ原です。江戸時代から干拓が進められましたが、水害の多い地でありなかなかうまくいかず、明治以降にようやく干拓が進んで、現在はほとんどが住宅地と農地になっています。

それ以前はここは東海道の名所の1つでもありました。

さて、金谷宿と日坂宿の間には小夜中山峠があるわけですが、上記の諏訪原城と小夜中山峠の間には盆地があります。そこが菊川の里です。江戸時代には立場だったところになりますが、戦国時代以前には宿場だったところです。


菊川の里

承久の乱の後には幕府方に捕らえられて鎌倉へと護送される公家の藤原宗行が、我が身の将来を儚んで漢詩を読んだところです。この藤原宗行はこの後浮島ヶ原に至ったとき、先に鎌倉に護送された藤原光親の従者に会い、従者が光親の遺骨を持って帰る途中だったことから、宗行は自分も処刑される運命を免れないことを知るのです。

菊川には江戸時代に水戸藩士が建てた藤原宗行の碑があります。


藤原宗行の碑

 

今川一族の興亡

相模川と馬入橋
(同第3期第2回 茅ヶ崎~大磯宿 3~4ページ)


馬入橋


その下の相模川

 

府中宿にあった宝泰寺の墓
(同第6期第3回 東静岡~藤枝宿 3ページ)


岡部正綱の墓

 

高輪の泉岳寺
(同第1期第1回 日本橋~品川宿 8~9ページ)


泉岳寺山門

戦国時代に東海の覇者として勢力を誇った今川氏。この今川氏に関連する場所が佐夜中山峠にはあります。

鎌倉幕府は元弘3年(1333)に滅ぼされますが、元執権北条高時の遺児時行は鎌倉を逃れ、後に諏訪で挙兵し鎌倉を攻め落とします。建武2年(1335)に起きたこの事件は中先代の乱と呼ばれ、南北朝の騒乱の契機となります。

この乱を鎮圧するために鎌倉に向かったのが足利尊氏です。このときに足利一族だった今川氏の兄弟も尊氏に従って出陣します。

今川基氏の子の四兄弟は、上から順に頼国、範満、頼周、範国でした。本当はもう1人いましたが出家しています。今川兄弟は足利軍の先方として、小夜中山峠で敵の先方名越邦時の軍と激突し、これを打ち破り邦時を討ち取りました。

敗れたとはいえ名越邦時は強敵で、今川頼国は邦時の戦いぶりをたたえて丁重に埋葬しました。それが小夜中山峠にある鎧塚だと伝わっています。


鎧塚

ところが今川四兄弟はこの戦いで悲劇的な運命をたどります。まず北条時行軍が鎌倉に攻め込む前に起こった小手指河原の戦いで、範満が戦死します。そして足利尊氏の出陣に従った三兄弟は、小夜中山峠から鎌倉に進撃する途中の相模川の渡河戦で、なんと頼国と頼周が戦死してしまったのです。

これに対して尊氏は、ただ1人生き残った範国を駿河の守護に任じて、今川兄弟の功績に報いたといわれています。(最初から範国が嫡男だったという異説もあります)

その今川氏は義元の時代に最盛期を迎えます。駿河、遠江、三河に加えて織田氏が支配していた尾張の一部にまで食い込んだのです。


今川義元木像

ところが今川義元は桶狭間合戦で戦死してしまいます(実は桶狭間古戦場は東海道沿いにあります。これについても異説があり、いろいろ面倒なところです)。その子氏真の代になると三河と遠江の豪族たちが次々今川に反旗を翻し、それらを結集した徳川家康が西から、北からは武田信玄が攻め込んできます。信玄によって駿府を追い落とされた今川氏真は掛川城に逃げ込みますが、ここを家康に包囲され、ついに氏真は家康に降伏することとなります。戦国大名としての今川氏の終焉です。


東海道沿いにある桶狭間古戦場


掛川城 ただし現在の城跡は後世のもの

一方武田軍の侵攻によって焼け野原になった駿府では、今川氏家臣の岡部正綱が今川屋敷跡に立て籠もって武田信玄と戦いました。岡部軍は頑強に抵抗し、力で攻め落とすことができなかった信玄は、使者を送って降伏を促し、ようやく駿府を手に入れたということです。後に岡部正綱は徳川家康に仕え、駿府城下だった宝泰寺に墓があります。

ところで家康は19歳まで、今川義元のいる駿府で育ちました。人質として駿府にいたのですが、義元にはずいぶんとかわいがられたようです。義元としては、家康(当時は竹千代、松平元康)を配下の有力武将に育てるつもりだったのでしょう。

そのため家康は恩人である義元を弔うための寺を江戸に建てました。それが高輪の東海道沿いにある泉岳寺です。今は赤穂四十七士の墓所がある寺としてよく知られています。


泉岳寺本堂

 

東海道を歩く楽しみは多々ありますが、様々な事柄の関連地が東海道にそって点々とあり、これらをつなぎ合わせた物語を知ることも、楽しみの大きな要素です。また、これこそが「ある町」ではなく「東海道」を訪れる醍醐味といって良いでしょう。

東海道でガイドをしている私も、この楽しさをお客様に是非とも知っていただきたいと思います。むしろガイドの立場とすれば、これが話せなければ「東海道のガイド」をしている意義がありません。

だって、目の前にあるものについてだけ話をするのでしたら、地元のガイドをしている人たちの持つ情報量にはかなわないのですから。

これからも東海道をご案内する上では、東海道沿いの町と町、場所と場所との関連を、さらには東海道から離れた場所との関わりなどについてもお話しして、お客様が歩いているこの道の過去と未来を結びつける役割を果たしていきたいと思っています。

 

そのためにこのようなブログも今後書いていきたいと思いますが、なにしろ今回のものを書くのに時間がかかりすぎました。ですから時間の許す限り・・・とちょっと後ろ向きにお約束しておきます。

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)