2月1日と2日に「京都まであるく東海道」で掛川宿から磐田駅までを歩いてきました。

東海道を歩いていると、その途中で見たものが東西の各所で結びつきます。これが東海道をあるく面白さの1つなのですが、今回歩く掛川から磐田の間にもこれまで見てきたものと関連するものがいくつもあります。

たとえば・・・

※( )内は「京都まであるく東海道」第2シリーズで使用した配付資料の記載箇所です。

 

徳川家康武田信玄の抗争

今川義元が桶狭間合戦で戦死したことから、東海の覇者だった今川家の衰退がはじまりました。永禄11年(1568)には駿河に武田信玄が、遠江に徳川家康が攻め込んできます。義元の子で今川氏の当主だった今川氏真は、武田軍によって駿府を追われ掛川城に逃げ込みます。しかし掛川城も徳川家康によって包囲され、半年にわたる戦いの後に氏真は家康に掛川城を明け渡し、妻の実家である小田原の北条氏の庇護を求めて去って行きます。戦国大名である今川氏の滅亡です。

今川氏が拠点としていた駿府では、豊臣秀吉の側近だった中村一氏と徳川家康が築いた駿府城の天守台の発掘作業がつづいています。ここから今川氏の館の跡と考えられる遺構も発見されています。ここへは2019年12月7日の「京都まであるく東海道」で訪れています。(第6期第3回配付資料 4ページ)

そして今回歩いた2020年2月1日には今川氏の終焉の地である掛川城を訪れました。

でも本当は、今川氏真が立て籠もって徳川家康と戦った掛川城は、現在天守閣が復元されている場所ではありません。ここから北東約400メートルのところにある高台が、戦国時代の掛川城本丸だった場所です。

現在は龍華院大猷院殿霊屋が建っています。この建設の経緯に関しては後述します。

さて、今川氏の旧領を分け取りした形になった徳川家康と武田信玄ですが、領地の境を接するようになったことから相争うようになります。

家康は遠江における拠点として、かつて国府があったとされている見付に城を築こうとします。しかし武田軍の侵攻を受けた場合、見付の西にある天竜川に阻まれて織田信長の援軍が間に合わないおそれが出てきます。そのことから家康は見付の築城をあきらめ、浜松に新たな城を築いてここを居城としたのです。

そしてそのときがついに来ました。元亀2年(1571)に武田信玄は遠江侵攻を開始しました。名目上は将軍足利義昭に上洛を促されたからですが、本当のところは徳川家康を殺して領土を奪うのが目的だったようです。

これに対して家康も軍を率いて威力偵察に出ます。そして徳川軍の先鋒と武田軍は、三ヶ野川で激突するのです。

このとき武田信玄が本陣を置いたのが東海道沿いにある許禰神社です。

境内に徳川家康の腰掛石があるのはご愛敬です。たしか以前は関ヶ原合戦なんて書いてなかったような・・・。

これに対して徳川軍の先鋒だった本多忠勝は、三ヶ野大日堂のある高台から武田軍の様子をうかがっていました。

実際に行ってみると、この高台の上から三ヶ野川の対岸にある許禰神社の方まで良く見えます。

味方に利あらずと見た本多忠勝は、家康に撤退を進言し、自らは殿軍として武田軍の追撃を食い止めつつ後退しました。この後退戦が忠勝を「家康に過ぎたるもの」として世に名を知らしめた一言坂の合戦です。

忠勝は見付の町に火を放ち、文字どおり武田軍を煙に巻いて退却に成功します。このときに忠勝を助けた見付宿の冷酒清兵衛は後に徳川家康の朱印状によって税を免除されました。それゆえその屋敷は御朱印屋敷と呼ばれています。見付宿にある御朱印屋敷には、今も子孫の人たちが住んでいます。

この一言坂合戦から三方原合戦、武田信玄の病死とつづき、その子の武田勝頼とも徳川家康は戦い続けます。そして長篠合戦で織田信長・徳川家康の連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、一気に徳川方が優勢となるのです。

そんなとき、武田方から徳川の様子をさぐりに笹田源吾という武士がやってきます。しかし源吾はかつて信玄が本陣を敷いた許禰神社の神官で、この地の豪族だった木原氏に討ち取られてしまいます。

許禰神社の隣にある長命寺には、笹田源吾の供養塔の一部が残っています。

ところでこの木原氏、実は東海道を歩き始めた初日に名前が出てきます。

コレド日本橋の北隣にある通りは木原店(きはらだな)と呼ばれています。
(第1期第1回配付資料 3ページ)。

徳川家康が江戸にやってきたとき、木原氏も江戸に屋敷を構えました。その屋敷のあった場所が木原店だといわれています。

 

小田原合戦後の北条氏

天正18年(1590)に、小田原の北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。当主北条氏直は高野山に追放、その父と叔父の北条氏政・氏照の兄弟は切腹となりました。

2019年1月と2月に小田原城と北条氏政・氏照兄弟の墓を訪れています。
(第4期第1回配付資料 9ページ)

その後の北条氏はどうなったのかというと、本家は絶えてしまいましたが一族は徳川家康に仕えています。そのうちの1人が北条氏勝。

2019年の4月に山中城跡を訪れていますが
(第5期第1回配付資料 8~9ページ)

このとき山中城を守っていた北条軍の主将だったのが北条氏勝です。

その氏勝の養子として北条家を継いだのが北条氏重です。ところが氏重は晩年になるまで男児にめぐまれませんでした。そのため、末期養子を認めてもらおうと幕府に対して運動します。それが先の将軍である徳川家光の廟所を建てて、将軍への忠誠心を見せることでした。

そしてできたのがこれ。龍華院大猷院殿霊屋です。

ここまでしたにもかかわらず養子が認められることはなく、氏勝の系統の北条氏は絶えてしまいました。しかも北条氏重の墓は1854年の安政の大地震で崩壊し、その状態で今も残っているという気の毒な話までついてきます。

 

掛川城主山内一豊

豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立し、その結果起こったのが関ヶ原合戦です。このとき諸将はどちらに味方するか迷い、当時掛川城主だった山内一豊は徳川家康を小夜中山の久延寺において茶でもてなし、家康に味方するかどうかを考えたと伝わります。

久延寺には2020年1月に訪れました。茶亭の跡には小さな碑がありました。
(第7期第1回配付資料 13~14ページ)

結局山内一豊は徳川家康に味方して、関ヶ原合戦後は土佐24万石の大名となります。

掛川城の城下町にあたる掛川宿には、一豊とそのつま千代のレリーフもあります。

さて、一豊の子孫にあたるのが幕末の政界で活躍した山内容堂(豊信)です。


国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

このころ土佐藩の下屋敷は品川宿の南の立会川にあり、容堂は屋敷とは東海道をはさんだ向かい側にあった浜辺に砲台を築いています。この砲台には若き日の坂本龍馬も詰めていたことがあるといわれています。

立会川の砲台跡と坂本龍馬像には2018年の2月に訪れました。
(第1期第2回配付資料 7ページ)

ついでのお話ですが、酒好きだった容堂は下屋敷内にビールの醸造所を造ったことがありまして、それが現在品川宿で売られている品川縣ビールにつながっています。

山内容堂は明治5年(1872)に45歳で死んでいます。彼のお墓も鮫洲の東海道からほど近いところにあります。

 

掛川の俳人

掛川宿の西には十九首という場所があります。平将門とその郎党たち19人の首が埋葬されているという伝説があります。その場所は今は一箇所にまとめられ、十九首塚と呼ばれています。

この伝説の真偽はよくわかりませんが、将門の首塚は東京の大手町にもありますから、なんともおかしな話です。ちょっと気になるのは、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」にも出てきた話ですが、永禄5年(1563)にほぼ同数の井伊直親主従がここで掛川城主の朝比奈泰朝に殺害される事件が起きていることです。本当は埋葬されたのは平将門たちではなく、井伊直親たちではないかという気もします。

ところでここには平将門を弔うために建てられたという東光寺があります。その門前には1基の句碑が。

桜見し 心しずまる 牡丹かな

前回である2020年1月に掛川宿の東側でその屋敷を見た伊藤蘭牛の句です。
(第7期第1回配付資料 17~18ページ)

伊藤蘭牛は岡﨑の俳人鶴田卓池と手紙のやりとりをすることで俳句を習った人物です。東海道岡﨑宿には鶴田卓池の住居跡と墓がありますが、ここを訪れるのは今年の初夏となりそうです。

 

大盗賊日本左衛門

歌舞伎の登場人物日本駄右衛門のモデルは、実在した盗賊の頭目日本左衛門です。日本左衛門は本名浜島庄兵衛、尾張藩の七里役所(大藩が独自にもっていた通信ネットワーク。7里ごとに飛脚の詰め所があり、リレー方式で文書を運んでいた)の役人の子どもだったともいわれています。尾張藩の七里役所の飛脚たちは尾張徳川家の威光を笠に着て傍若無人な振る舞いが多かったともされ、七里役所内に賭場を開帳したりしていたそうです。そんなところで育った庄兵衛も道を踏み外して親から勘当され、東海道を荒らし回る盗賊になり、「日本左衛門」と呼ばれて恐れられたといいます。

2020年1月に小夜中山峠に登る前に訪れた庚申堂は、浜島庄兵衛が盗みに行く身支度をしたと伝わる場所です。(第7期第1回配付資料 12ページ)

悪名高き日本左衛門こと浜島庄兵衛ですが、延享4年(1747)に京都町奉行所に自首しました。自身の手配書きが回っていることで逃れられないと思ったからとも、子分が捕まって拷問を受けていると聞いたためともいわれています。

浜島庄兵衛は江戸に送られ獄門(さらし首)となりました。首は見付宿郊外の刑場である遠州鈴ヶ森にさらされたといわれています。

ただし写真の場所は近年まで刑死者たちの供養塔が置かれていた場所で、本来の遠州鈴ヶ森があった場所は道路の拡張によって道の一部になってしまっています。現在は上の写真のような「遠州鈴ヶ森」の表示はなくなっており、土地を管理するお寺が立てた看板が設置されています。

鈴ヶ森といえば、大森にもありました。ここは2018年2月に訪れています。
(第1期第2回 品川宿~蒲田 7ページ)

遠州鈴ヶ森は大森の鈴ヶ森刑場のコピーらしく、大森の鈴ヶ森同様に近くに涙橋まであります。

なお、金谷宿近くには日本左衛門の首塚が、見付宿には日本左衛門の墓と伝わる墓碑があります。

 

日蓮の両親

日蓮宗(法華宗)の開祖である日蓮聖人は、これまでも東海道のところどころで出てきました。

たとえば鎌倉幕府に受け入れられないことに落胆して身延山を目指す途中、酒匂川の増水によって立ち寄った法船寺。小さな五重塔があったところです。
(第4期第1回配付資料 4ページ)

鎌倉から東海道を歩いてきた日蓮聖人は、興津から身延道を通って身延山に登り、ここに道場を築きます。興津宿には身延道の入口がありました。
(第6期第2回 蒲原宿~興津宿~東静岡 10ページ)

しかし身延山の気候は厳しく、体調を崩した日蓮聖人は門弟の池上宗仲に招かれて池上に向かいます。結局そこで入寂してしまい、宗仲の屋敷が池上本門寺となるのですが、その本門寺へと向かう池上道は、多摩川の六郷の渡し口からつづいていました。写真の和菓子屋さんの脇の道です。
(第1期第3回配付資料 3ページ)

日蓮聖人は漁師の子どもだといわれています。鎌倉新仏教の開祖はみんな貴族の出身なのに、日蓮聖人だけ庶民の出なのです。ところが東海道袋井宿の近くでは、違う話が伝わっています。

この付近は貫名郷と呼ばれ、その領主が貫名氏でした。今も上貫名、下貫名という地名があります。この地に伝わる話では、日蓮聖人の両親は豪族の貫名氏で、合戦に敗れて千葉の小湊に行き漁師になったのだそうです。

この話は江戸時代初期には広く信じられていたらしく、将軍の剣術指南役だった柳生宗矩が妙日寺に日蓮聖人の両親の墓を建立しています。

 

小夜中山の怪鳥

先月あるいた小夜中山にはいろいろな伝説がありましたが、その中に体がヘビの怪鳥が村人や旅人を襲ったという蛇身鳥の話があります。
(第7期第1回配付資料 15ページ)

その蛇身鳥のことだと思われる伝説が、これも袋井宿近くの七ツ森神社に伝わっています。

小夜中山に出没する怪鳥を退治するため、都から7人の武士が派遣されました。しかし彼らは怪鳥の返り討ちにあい全員討ち死にをしました。そこで彼らの遺体を埋葬した7つの塚があったので、七ツ森と呼ばれるようになったというのです。

小夜中山峠から袋井宿まで17キロも離れているのですが、人々が行き交う東海道だからこそ、伝説も道を伝わり七ツ森神社の伝説となったのでしょう。

 

次回の「京都まであるく東海道」(第1土曜日開催第2シリーズ)は3月7日と8日に開催予定です。果たしてどのような物語が待っているのでしょうか?

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)