月に1回歩いて京都をめざす当舎のイベント「京都まであるく東海道」、2月15日は箱根湯本から元箱根まで歩いてきました。

一時は天気予報が雨となり天候が心配されましたが、2月15日は雨に降られることもなく、無事に元箱根に到着することができました。

距離は10キロほどといつも歩いているものよりも短めですが、標高差約800mの急傾斜、しかも3~4割は石畳で足場の悪い道でしたので、午前9時に箱根湯本を出発しましたが、元箱根への到着は午後5時を回っていました。

今回は18名のお客様が全員怪我もなく、リタイヤもなく最後まで歩ききれましたので、この点はたいへん良かったと思っております。

ところで、先日来このブログに書いているとおり、東京から京都まで東西を結ぶ東海道には各所に“横のつながり”をもつものがあります。例えばヤマトタケルに関する伝承は、品川宿、川崎宿、二宮の袖ケ浦や吾妻神社などに点々とありました。ヤマトタケルに関する伝承は、この先の東海道でも続々と出てきます。

 

今回歩いた箱根湯本から元箱根の間の箱根の東坂にも、これまで見てきたものと関連する場所がいくつもあります。たとえば・・・
(括弧内は「京都まであるく東海道」で配布した資料の該当箇所です)

まず元箱根を出発し三枚橋で早川を渡ると、しばらくは舗装道路の坂道がつづきます。道の両側には温泉ホテルが並んでいます。そんな中に早雲寺があります。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

早雲寺は戦国武将の伊勢盛時の菩提寺として建てられたと伝わるお寺です。建てたのは伊勢盛時の子の北条氏綱です。そのため伊勢盛時は後に北条早雲と呼ばれるようになります。


国重文 北条早雲像


北条氏綱像

 

北条氏は韮山城から進出し、関東の制圧を進める中で小田原城に本拠地を移しましたが、天正18年(1590)、5代目の氏直のとき豊臣秀吉に攻められ、氏直の父氏政と叔父氏照が切腹して北条氏は降伏します。(配付資料 第4期第2回 9ページ)


小田原駅近くにある北条氏政・氏照の墓

 

北条氏に代わって浜松城主だった徳川家康が関東の地を与えられて江戸に入り、家康によって慶長6年(1601)に東海道宿場制が制定されることになるわけです。


徳川家康像

 

天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、石垣山城が完成するまで早雲寺が本陣に使われました。そして石垣山城に本陣を移すとき、秀吉は早雲寺に火を放ちました。早雲寺が再興するのは、江戸時代になり3代将軍徳川家光の時代になります。

ところで北条氏はその一族が徳川家の家臣となりましたので、大名として存続した家もあります。例えば河内狭山藩は北条氏4代目の氏政の弟の家系です。

その狭山藩4代藩主の北条氏治は、早雲から氏直にいたる「北条五代の墓」を早雲寺に建立しています。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

また、前回に出てきた戊辰箱根戦争の一方当事者である遊撃隊の供養塔もあります。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

幕府陸軍歩兵部隊であった遊撃隊は、慶応4年3月15日の江戸城無血開城を受けてその一部が伊庭八郎、人見勝太郎に率いられて江戸を脱出、木更津にあった請西藩の若き藩主林忠崇とともに新たな遊撃隊を結成し、新政府軍と戦うことを同意した小田原藩に滞在していました。ところが小田原藩は遊撃隊を裏切り、城下に宿泊していた遊撃隊を襲撃、遊撃隊は東海道を箱根に向かって敗走します。最後の激戦は箱根湯本の三枚橋の上で戦われ、その後はちりぢりになり、箱根山中に隠れているところを殺された者や、榎本艦隊とともに東北や函館に向かった者もいました。(配付資料 第4期第2回 7ページ)


紹太寺にある遊撃隊士の墓

 

小田原から箱根湯本へ行く途中にも、遊撃隊に関わりのある山崎古戦場の碑(碑文は史実と異なります)や新政府軍戦死者の供養塔、三枚橋などを通りました。(配付資料 第4期第2回 8~9ページ)


山崎古戦場の碑


新政府軍戦死者の供養塔


三枚橋

 

早雲寺にある遊撃隊士の供養塔は、明治13年(1880)に人見寧(勝太郎から改名)が建てたものです。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

また、早雲寺には飯尾宗祇の墓もあります。戦国時代に連歌の第一人者だった宗祇は、弟子たちとともに旅の途中、文亀2年(1502)に箱根湯本で没します。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

このとき宗祇を看取った高弟の宗長は、東海道島田宿出身、のちに丸子宿の郊外に柴屋軒(現柴屋寺)を建ててそこに住みます。


柴奥寺


宗長像

 

また、宗祇は初めて古今伝授(こきんでんじゅ)を受けた人物として知られています。古今伝授とは古今和歌集の解釈を師から弟子に口伝するもので、これを受けた者は和歌の第一人者の権威を得るものです。宗祇は文明3年(1471)に三島において東常縁から古今伝授を受けました。やはり宗祇も東海道に深いゆかりのある人物です。

 

ところで、宗祇は出自がはっきりしません。おそらく庶民の出なのでしょう。東常縁は美濃の笹脇城主、いわば田舎の豪族です。そのため彼らは実力はあっても、京都のお公家さんたちから和歌の第一人者となかなか認められませんでした。そこで、藤原定家直筆といわれる100枚の色紙を受け渡し、自らの権威付けをしたといわれています。これが小倉百人一首です。定家が家を新築した友人のために書いて屏風に貼り付けた百人一首ですが、これが世に出回るようになった契機は古今伝授だともいわれています。

なお、早雲寺の庭園を築いたのは伊勢盛時の子で100歳近くまで生きた武将北条幻庵だといわれています。この北条幻庵、息子たちが東海道沿いにある蒲原城で武田信玄と戦って戦死した話が東海道を歩いた先で出てきますので、覚えておいてください。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

さて、さらに坂道を登っていくと正眼寺があります。この境内には大きな石のお地蔵様があります。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

このお地蔵様、もともとは小田原宿から箱根湯本に向かう東海道の途中にあった紹太寺にありました。紹太寺は春日局と江戸時代前期の小田原城主の稲葉氏の菩提寺です。(配付資料 第4期第2回 7ページ)


稲葉一族と春日局の墓


紹太寺の旧境内はミカン畑に

紹太寺が火事で焼けてしまい、正眼寺に移されたのです。あまり大きいものですから、2つに切って運ばれてきました。お腹をよく見ると切れ目が入っているのはそのためです。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

この正眼寺には、曽我兄弟の墓もあります。正眼寺を中興したのは深川の材木商の冬木屋です。正眼寺は冬木屋の菩提寺でもあり、冬木屋の妻が曽我兄弟の大ファンで、兄弟の墓を築いたのです。(配付資料 第4期第3回 3ページ)

 

曾我兄弟といえば、大磯から小田原にかけてもたくさんの関連地がありました。たとえば化粧坂(けわいざか)とその途中にある虎御前化粧の井戸。虎御前は兄の曽我十郎の恋人だったと伝わる女性です。(配付資料 第3期第2回 8~9ページ)


化粧坂


虎御前化粧の井戸

さらに二宮の知足寺にも曽我兄弟の墓がありました。曽我兄弟の姉が二宮を支配していた豪族二宮氏に嫁入りしていたことが縁で建てられたといわれている墓です。(配付資料 第3期第3回 7ページ)

 

また、国府津の菅原神社には曽我兄弟の隠れ石が。(配付資料 第4期第1回 3ページ)

 

ここを通る工藤祐経を討とうと兄弟でこの石の陰に潜んでいたのですが、工藤方に察知されてこのときは仇を討てなかったと伝わる石です。


想像図

 

弟の曽我五郎は幼きとき箱根権現(現箱根神社)に稚児として預けられていたことがあり、箱根周辺の東海道には曽我兄弟に関する逸話がたくさん残っているのです。(配付資料 第4期第3回 9ページ)


箱根神社

 

箱根の東海道は、やがて石畳の道となります。もともとは箱根の東海道には竹が拭いてあったのですが、竹は劣化が早いために延宝8年(1680)に石畳に造り替えられました。ただし箱根は江戸を守るための要害であるため、わざと歩きにくいように石畳で舗装したといわれています。

現在の石畳はおそらく江戸時代よりも荒れているはずで、なかなか歩きにくいです。しかも結構な急勾配。(配付資料 第4期第3回 4~6ページ)

 

途中、箱根寄木細工発祥の地である畑宿でお昼休み。(配付資料 第4期第3回 6ページ)

 

そして箱根東坂には、江戸時代から旅人に甘酒を供していた「甘酒小屋」が9か所にあったのですが、唯一残っている「甘酒茶屋」で休憩します。(配付資料 第4期第3回 8ページ)

 

坂道を登っているときは汗が噴き出すほど暑いのですが、休憩すると一気に寒くなるのが箱根の東海道です。

箱根は外輪山ですので、その頂を越えるとカルデラ湖である芦ノ湖に向かって下り坂になります。(配付資料 第4期第3回 8ページ)

 

やがて芦ノ湖が望める場所に来ました。元箱根はもうすぐです。(配付資料 第4期第3回 8ページ)

 

東海道の並木はほとんどが松でしたが、松は標高の高いところには育ちにくいこともあり、箱根東坂では畑宿が松並木の北限でした。元箱根近くでは、松の代わり杉並木が植えられていました。

この杉並木の道が芦ノ湖畔の元箱根へとつながっています。大きな赤い鳥居がありますが、これは箱根神社の一の鳥居。もともとはこの付近が箱根の町の中心でしたが、もっと西に箱根関所と箱根宿ができたことで、箱根の町の中心はそちらに移行しました。だから「元箱根」というのです。

この元箱根の芦ノ湖畔に石仏石塔が集められているところがあります。賽の河原です。(配付資料 第4期第3回 9ページ)

 

ここにはかつて青銅製の地蔵の大仏がありました。

 

しかし明治初めの廃仏毀釈の中で金属商に売り払われてしまいました。その大仏は現在小田原宿の徳常院にあります。(配付資料 第4期第2回 4ページ)

 

今回の「京都まで歩く東海道 第5期」では東海道第一の難関と呼ばれた箱根を元箱根まで歩きました。次回は箱根関所を越えて箱根峠へ、そして戦国時代の最後を彩った大合戦のあった山中城まで歩く予定です。

京都まで歩く東海道第5期 告知ページ

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)