東海道を歩いていると、小田原市の酒匂川西岸に新田義貞の首塚と呼ばれる宝篋印塔があります。
この宝篋印塔は、形からして室町時代後期に造られたものなのだそうです。新田義貞が生きた南北朝時代(室町時代初頭)とはずいぶんと開きがあります。
つまりは後世の人によって首塚として持ってこられたものなのでしょう。
江戸時代後期に編さんされた「東海道分間延絵図」には、現在首塚のある場所とは東海道を挟んだ反対側に「新田大明神」という神社の記載があります。現在この神社は遷座しており、跡地に元宮として小さな祠が残っています。
これに関して、江戸幕府の研究機関である昌平坂学問所が編纂した「新編相模国風土記稿」には、「新田社」として以下のように書かれています。
「社伝によると、延元2年(1337・ただし実際の戦死は延元3年)に新田義貞が越前で討ち死にした後、家臣の船田入道が義貞の首級を持って東国に下ってここに葬った。しかし太平記によると、義貞の首は氏家重国に取られ、斯波高経に実検されてから京都で獄門となっており、船田入道も義貞討ち死によりも前の建武2年(1335)に京都で戦死している。そのためこの社伝は信じがたい」(要約)
「三河の妙国寺の寺伝では、義貞が討ち死した後、宇都宮泰藤がその首級を持って、義貞の故郷である上野国に行こうとしたが、小田原まで至ったところで泰藤が病気となり、義貞の首級を酒匂川の近くに埋めたとある。これが後に新田明神として崇められるようになった」(要約)
なんだかどこまで本当でどこからウソなのかわからないような記述ですが、現地の説明板に書かれている内容は、「新編相模国風土記稿」がもとになっているようです。
この新田大明神は、現在では近くにある網一色八幡宮の境内に新田神社として遷座しています。幕末の火事で新田大明神が焼け、明治になって網一色八幡宮に合祀されたともされています。
ここまでは神社として東海道の北側にあった新田大明神の話です。それでは現在東海道の南側にある新田義貞の首塚と呼ばれている宝篋印塔ですが、これが何なのかといいますと、はっきり言ってよくわかりません。
江戸時代後期の絵図に載っていないくらいだがら、おそらく明治以降に成立したものではないかと思われますが、成立時期を含めて、誰が何のためにここに置いたものなのか、さっぱりわかりません。
こちらのブログには面白い考証が書かれています。少し長いですがご参考に。
ところで、岡崎市にはもう1つの新田義貞の首塚があります。
場所は岡崎市の犬頭神社、首塚といいながら弁天祠の体裁をしています。そしてここにも宇都宮泰藤が埋葬したという伝承あるのです。
義貞の首をもって逃げた宇都宮泰藤は、自分の領地であるこの地に義貞の首を埋葬したというのです。
ところが義貞の敵である北朝の足利尊氏が優勢となり、義貞の首であることをおおっぴらにできない世の中になったそうです。そのため義貞の首塚であることを、なんとか隠そうとしました。
そこで生まれた伝説が白い犬の伝説です。
狩に出た宇都宮泰藤が疲れて大木の下でうたた寢をしていると、大蛇が現れて泰藤を丸呑みにしようとしました。
ところがこの様子に泰藤が飼っていた白犬が気付き、泰藤を起こすためにワンワン!と吠え立てました。
ところが目を覚ました泰藤は、寝ぼけて事態が理解できないまま、吠え声がうるさいと思い白犬の首を刎ねて殺してしまいました。
その直後に大蛇に狙われていたことを知った泰藤は、危難を知らせようとした白犬を哀れみ、神社を建てて祀りました。それが犬頭神社だというのです。
ちなみに「新編相模国風土記稿」にも出てきた妙国寺は、この犬頭神社の近くにあります。宇都宮泰藤の墓と伝わる石塔も、妙国寺の境内にあります。
このように真相を隠そうとまでした岡崎市にある新田義貞の首塚、小田原市にある首塚との関係も含めて多くの謎を含んでいます。また、新田義貞の首塚や墓といわれるものは、他にも数箇所にあるようです。
果たして酒匂川近くの東海道沿いの首塚、あるいは岡崎市の首塚に、新田義貞の首は埋葬されているのでしょうか? いないのでしょうか?
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)