2024.7.19

「平家物語」の一ノ谷合戦のくだりで知られる熊谷直実は、後に出家して蓮生と名乗りました。

役者見立て東海道五十三駅
藤枝 熊谷直実

武勇の人だった直実らしく、出家後を描いた浮世絵もこんな感じです。

「蓮生玉織の庵室に来ル図」より
蓮生法師

絵師に悪意を感じちゃうくらい「武勇な」お坊さんに描かれています。

蓮生法師は藤枝宿で蓮生寺というお寺の開山となり、そのときの伝承についても先に書いたブログで紹介しました。

→藤枝宿と熊谷直実

小夜中山峠

東海道五十三次の歩き旅をご案内するのが当舎の仕事ですが、東海道を歩いて島田市と掛川市の境にある小夜中山(さやのなかやま)峠まで来ると、ここに蓮生法師の歌碑があります。

蓮生法師歌碑

甲斐が嶺は はや雪しろし神無月
しぐれてこゆるさやの中山
   蓮生法師

しかし、この歌を詠んだ蓮生法師は、熊谷直実の蓮生法師ではないんです。
熊谷直実と同じ時代、鎌倉時代の初期にはもう一人蓮生法師がいたのです。

その人の俗名は宇都宮頼綱。ややこしいことに熊谷直実と同じく鎌倉の御家人です。
ただし熊谷直実が源平合戦でバリバリに活躍し、その様子が「平家物語」「吾妻鏡」に描写されている武士であるのに対して、宇都宮頼綱は「吾妻鏡」の初出が源平合戦終了後の富士の巻狩の項、あの曾我兄弟の仇討ちで知られる部分になります。

年齢も宇都宮頼綱の方が熊谷直実よりも37歳ほど年下になります。

熊谷直実は源頼朝らによる領地争いの裁定に不満で出家しましたが、宇都宮頼綱は頼朝の死後に謀反の疑いをかけられて出家しました。
出家した時期は全然ことなりますが、ともに法然上人に弟子入りして蓮生と名乗りました。いよいよややこしい。

宇都宮頼綱の蓮生法師は和歌が得意で、出家後は京都で暮らしていたようです。
和歌のつながりで藤原定家と懇意にしていました。藤原定家の跡継ぎに蓮生の娘が嫁いだくらい仲がよかったそうです。

蓮生法師は、やがて嵯峨野の小倉山に新邸を建てて移り住みました。近くに住んでいた定家は、新居祝いとして古今の和歌から名歌100首を選び、それを色紙に書いて衝立に貼り、これを蓮生に贈ったそうです。

藤原定家の選んだ100首の和歌・・・。

そうです。これが百人一首なのです。

文化9年(1812)出版
「百人一首」
上記「百人一首」の藤原定家の歌の部分


東海道の小夜中山峠に歌碑がある、熊谷直実ではない方の蓮生法師、百人一首のはじまりとなった人だと覚えておいてください。

浮世絵に描かれた百人一首

ところで、宇都宮頼綱の蓮生法師については因縁の相手がおりまして・・・

→つづく

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

【出典】
浮世絵・「百人一首」は国立国会図書館デジタルコレクションより

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