2024.7.20

東海道の歩き旅の出発点でもあり、古地図散歩でもたびたび訪れている日本橋。
この橋は慶長8年(1603)に初めて架けられたとされています。いまからおよそ420年も前のことです。

歌川広重が描いた江戸時代末期の日本橋
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

現在の橋に架け替わったのが明治44年(1911)です。
そこから数えても120年以上が経過しています。

現在の日本橋

長い歴史をもつ日本橋です。
明治時代に架けられてから今にいたるまで、たくさんの事件がありました。
それらの事件で受けた痕が、今も日本橋には残っているのです。

代表的な事件が、関東大震災と第二次大戦中の空襲です。

まず関東大震災のとき、日本橋周辺の町は炎に包まれました。

関東大震災直後の日本橋
国立国会図書館デジタルコレクション「関東大震火災録」より

そのとき日本橋川にも、瓦礫、木片、船など多くのものが水上を漂流しました。
写真では多くの漂流物によって日本橋周辺の水面が埋まっている様子がわかります。

中でも上流より炎上しながら流されてきた船は、日本橋の橋脚に引っかかって止まり、そのまま燃えつづけて下から日本橋を炙りつづけました。

こうして火に炙られたため、日本橋の表面の石はひび割れて剥落してしまいました。

平成の大改修でも剥落した部分はそのまま残され、今でもその痕跡を見ることができます。


日本橋中央の橋脚の近く、麒麟像の真下付近の石材の表面が剥落して、角が取れて丸くなっているのがわかります。
これが日本橋に残る関東大震災の傷痕です。

その22年後の第二次大戦末期、東京は米軍機の空襲によって焼夷弾が雨のように降り注ぎました。

焼夷弾は直径約8センチの筒状をしていて、それが束ねられて1つの爆弾の中に入れられています。投下されると空中でそれぞれの筒がバラバラになって降り注ぎ、筒に詰められた油が飛び散って引火し、大規模な火災を引き起こすのです。

その焼夷弾の筒が直撃した痕が、日本橋には多数残されています。

日本橋の石の路面には、直径約8センチの丸い窪みがいくつもあります。これが焼夷弾が直撃した痕跡です。
一部はつまずくのを防ぐためにセメントで埋められていますが、いまもこれら戦争の傷痕を見ることができます。

歩道のあちこちに残っています。車道にもあるとは思いますが、危険ですから車道で探すのはやめてください。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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