2024.7.22
日本橋は歩き旅応援舎における東海道の歩き旅イベントの出発点であり、古地図散歩のコースでもたびたび立ち寄ることで、たいへんお馴染みの場所です。
この日本橋の北詰に「元標の広場」と呼ばれる場所があります。
そこに「東京市道路元標」と書かれた青銅製の柱が立っています。
この「東京市道路元標」は国の重要文化財です。平成11年(1999)に日本橋が重要文化財に指定されたとき「青銅製照明灯を含む」とされ、東京市道路元標も重要文化財に含まれることとなりました。
現在は日本橋の北に置かれていますが、日本橋の上に高速道路ができるまでは橋の真ん中の中央線上に置かれていました。
場所はちょうど左右の麒麟像の真ん中。今は路面に日本国道路元標が設置されている場所です。
こちらは明治45年(1912)発行の「東京府名勝図会」に掲載されている日本橋が完成した直後ころに撮影された写真です。
当時から橋の真ん中に柱が立っておりました。
役割は日本橋の上を走る市電(後の都電)のための架線柱です。
あ れ ?
東京市道路元標と形が違う!
実は東京市道路元標は日本橋と同じ明治44年ではなく、関東大震災の復興事業の中で造られて、それまであった市電の架線柱に替わって日本橋の中央に設置されたらしいのです。
関東大震災の翌年である大正13年(1924)に発行された「関東大震災記念新旧対照」という写真集には、震災前と震災直後の日本橋の写真が載っています。
ちょっと不鮮明ですが、両方の写真に写っている日本橋の中央に立っている柱には、架線用の横棒があるだけで装飾や電灯がありません。
政府が認定する関東大震災の復興事業終了は昭和5年ですが(実際の復興事業はもう少し後年までつづきました)、その年に発行された「帝都復興史」に掲載されている写真はこちらです。
写り方は小さいのですが、東京市道路元標と同じ形になっています。
柱の形が変わり街灯という役割が加わりましたが、市電の架線柱の役割は引き続き担っています。
関東大震災後に立てられた東京市道路元標は、それまでの架線柱よりも装飾が豊かになり柱の上部と中ほどには電灯が取り付けられました。
これまでただの架線柱だったものが「道路元標」になったことには、大正10年(1921)から14年にかけて発布された政令によって、各市町村に道路元標を設けることが定められたことが影響していると考えられます。
大正10年の内務省令では道路元標は石材など耐久性のある素材で造り、原則として25センチ四方で高さ60センチのものを道端に設置することとされていました。それが大正14年に改正され、形と設置場所の制限がなくなりました。
こうしてそれまでの架線柱に替わって、日本橋の中央に東京市道路元標が立てられるようになったと考えられます。
東京市道路元標に関しては文面の資料が乏しく、設置された年月日が特定できるものは見付からなかったのですが、大正12年の関東大震災直後ころ撮影の写真に写っておらず、昭和5年の写真に写っていることから、この間に東京都道路元標は製作されて日本橋の中央に設置されたことに間違いありません。
関東大震災復興事業の中で日本橋の修繕工事は昭和3年に終了していますので、それとも合致します。
東京市道路元標が製作・設置された正確な日時については、今後もひきつづき調べてみようと思います。
こちらのブログ記事もご参照ください。
→日本橋のまん中で
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【参照文献】
「東京府名勝図会」田山宗尭編 明治45年刊
「帝都復興史」復興調査協会編 昭和5年刊
「大東京名所百景写真帖」昭和12年刊
「関東大震災記念新旧対照」木戸正栄著 大正13年刊
「開発こうほう」1999年3月号収録「道路元標由来」上野正人著
最新のブログ記事
- 白河藩松平家 「べらぼう」で松平定信が嫌がった養子先とは?大河ドラマ「べらぼう」では、蔦屋重三郎の活躍の一方で、幕府内の権力争いなどが描かれています。その中で松平定信が嫌々ながら養子に行きました。養子先の白河の松平家とはどういう家なのでしょう?
- 正眼寺と曾我兄弟 東海道沿いになぜ曾我兄弟の墓があるのか?箱根宿に向けて坂道がつづく東海道。その途中に曾我兄弟のお墓があります。あまり目立たないお墓なのですが、なぜここに曾我兄弟の墓があるのかを探りました。
- 早雲寺 北条早雲の名を冠する箱根湯本のお寺箱根湯本にある早雲寺。箱根湯本から箱根宿へと向かう上り坂を少し登ったところにあります。東海道を先に進む前に、見ておきたいところを紹介します。
- 岡崎城のいま 時代とともに変化する徳川家康出生の城徳川家康が生まれた岡崎城。明治以降の解体や復元をへて、現在は新たな魅力を放っています。
- 築山御前と松平信康の首塚 東海道岡崎宿にある徳川家康の妻子の埋葬地徳川家康の正室築山殿と長男信康は、いずれも非業の死を遂げています。東海道岡崎宿にある彼らの首塚を訪ねました。
- 御油・赤坂の飯盛女 「べらぼう」の吉原だけではない遊女たちの光と影大河ドラマ「べらぼう」の影響で、吉原の遊女たちの光と影が取り上げられることが増えましたが、光と影はなにも吉原だけにあったわけではありません。東海道五十三次の宿場で働いている飯盛女も同様です。それについて、飯盛女が多かったという御油宿と赤坂宿を取り上げました。
- 宿場の本来の機能とは? 「べらぼう」田沼意次の「宿場が潰れるとどうなる?」の真意2025年大河ドラマ「べらぼう」で田沼意次の言った「宿場が潰れるとどうなる?」とはどういう意味でしょう? これには宿場本来の機能がかかわっています。
- 投げ込み寺 「べらぼう」で蔦屋重三郎も嘆いた遊女たちの死の実態は?大河ドラマ「べらぼう」に出てきた死んだ遊女たちの埋葬シーン。いきなりショッキングなシーンでした。はたして彼女たちの埋葬地「投げ込み寺」の実態とは?
- 東海道保土ケ谷宿 初めての難所を控えた宿場の江戸時代後期のデータと現在の姿江戸時代後期に編纂された「東海同宿村大概帳」から保土ケ谷宿のデータをまとめました。江戸時代に書かれた絵や現在の写真と見比べてください。
- 石工頭の東照宮 日本橋小田原町の地名由来・石工の善右衛門かつて日本橋に「本小田原町」という町がありました。また、築地にも「南小田原町」という町がありました。江戸にあった「小田原」の地名の由来を探ります。
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 日帰りであるく東海道 第4期 国府津~元箱根開催日時
11月23日 国府津~小田原宿
12月28日 小田原宿~箱根湯本
1月25日 箱根湯本~元箱根
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第9期 国府~熱田宿開催日
2025年
1月12~13日 国府~岡崎宿
2月1~2日 岡崎宿~前後
3月1~2日 前後~熱田宿
参加費 各回6000円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦開催日時
2025年
1月18日 日本橋~品川宿
2月15日 品川宿~蒲田
3月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦開催日時
2025年
4月13日 日本橋~品川宿
5月11日 品川宿~蒲田
6月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円
※当面の間は日本橋から新たに出発する予定はありません。上記のイベントへのご参加をお勧めします。