2024.7.28

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→日本橋 20回の架橋年

1回目 慶長8年(1603)
2回目 元和4年(1618)
3回目 万治2年(1659)
4回目 万治9年(1666)
5回目 元禄13年(1700)
6回目 正徳2年(1712)
7回目 宝暦13年(1763)
8回目 安永2年(1773)
9回目 寛政8年(1796)
10回目 文化3年(1806)
11回目 文政6年(1823)
12回目 文政7年(1824)ころ
13回目 文政13年(1830)
14回目 弘化2年(1845)
15回目 弘化3年(1846)
16回目 安政6年(1859)
17回目 万延元年(1860)
18回目 明治5年(1872)
19回目 明治6年(1873)
20回目 明治44年(1911)

歌川広重が描いた日本橋。上記の架橋年が正しければ、おそらく13回目の日本橋

中央区教育委員会が編纂した「中央区の文化財3(橋梁)」の記述をもとに、日本橋が架けられた年をまとめるとこのようになります。

典拠としては「慶長見聞集」「東京案内」「武江年表」などが挙げられます。

「慶長見聞集」は江戸時代初期の作家三浦浄心が書いたもので、これに1回目と2回目が書いてあります。
自分が生きた時代のことを書いていますので、まあまあ信用できると思われます。
ただし記憶違いや誤記がないとは言い切れません。

「東京案内」は東京市が編纂して明治40年に(1907)に発行したもので、これに1回目、2回目を含めた14回分が書かれています。
公的機関が編纂したものなので信用できそうな気もしますが、問題は14回の架橋された年がずらずらと並べて書いてあるだけで、その根拠が記されていないことです。

「武江年表」は「江戸名所図会」を編纂した斎藤月岑が編纂した年表です。
彼は明治11年(1878)没ですので、明治6年の日本橋架橋についてまで「武江年表」には記されています。

中央区教育委員会は、「慶長見聞集」と「東京案内」をベースに、「武江年表」「春の紅葉」「噺の苗」「墨水消夏録」などに書かれた火災で日本橋が焼けた記載などを加味して、合計20回の架橋年を「中央区の文化財3(橋梁)」(昭和52年発行)に記述しています。

ただし同教育委員会はすべてを信頼できるものとしているわけではなく、根拠となった文書の誤記や読み違いの可能性や、他にも架橋されていた可能性を指摘しています。

たとえば12回目だけ「ころ」を付けましたが、「武江年表」に文政7年に火災で日本橋が焼けたという記述があり、これが文政6年の架け替えの原因となった火災の誤記なのか、別の火災なのか判断できず、11回目と12回目は同じ架橋である可能性があります。

同じように明治5年と明治6年の18回目と19回目の架橋も同じ架橋である可能性が高いものです。
ただ、明治以降のものとされる木製の日本橋の絵や写真は複数ありますが、形状の異なる橋が描写されているものもあり、なんとも判断しかねるところです。

それにこの20回の架け替えの行われた年を見て、まず感じることは初架橋の慶長8年(1903)から文化3年(1806)の203年間に10回の架橋しかないのに、文政6年1823)から明治44年(1911)までの98年間に10回も架橋されていることです。

建築技術は年々進歩しているので、後から造られたものが普通は長持ちします。
そのはずなのに20回の架橋年だけ見ると、前半約200年間に架けられた橋の方が、後半約100年間に架けられた橋よりも長持ちしたことになっています。

そんなはずないじゃん!!

前半203年間は、おそらく10回以外にも多数回架橋されているんでしょう。
古い話ですので、その記録が残っていないか見つかっていないんでしょう。

それに対して後半10回は同じ架橋が重複して記録されているなど、実際の架橋回数はもっと少なかった可能性があります。

結論です。
いまの日本橋が20代目という回数は、鵜呑みにしない方がいいでしょう。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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