2024.8.2

日本橋を出発して東海道を歩いて浜松町の近くまで来ると、大門交差点があります。
この大門この付近の地名でもあり、増上寺の総門が由来となっています。

江戸麹町の版元であった金鱗堂尾張屋が発行した江戸切絵図です。
「神明町・濱松町」などと書いてある道が東海道、その左側に増上寺が描いてあります。

復刻版金鱗堂板江戸切絵図「芝口南西久保愛宕下之図」より
©こちずライブラリ

江戸時代末期に作成された江戸切絵図には「表門 大門ト云」と記載されています。
この大門は増上寺の総門であり、増上寺の境内の入口を意味する門でした。

復刻版金鱗堂板江戸切絵図「芝口南西久保愛宕下之図」より
©こちずライブラリ

大門を入ると増上寺の境内ですから、大門から三解脱門にかけては増上寺の子院が両側に並んでいました。
現在はお寺以外の建物も増えましたが、それでも多くのお寺が道の両側にあります。

大門から三解脱門まで

増上寺は徳川将軍家の菩提寺であり、将軍の墓所もあるところです。

増上寺大殿(本堂)
現在の徳川将軍墓所

徳川家からも大切にされていて、増上寺の最初の大門は、江戸城大手門の一部が移築されたものだったと伝わっています。

現在の江戸城大手門

ところが明治になり、増上寺は新政府によって寺領を大幅に接収されたため、経営が大いに苦しくなり、そのため維持が困難になったことから明治11年(1878)に大門を東京市に寄付したのです。

現在の大門は昭和12年(1937)に鉄筋コンクリートで建てられたものです。
関東大震災での倒壊は免れたものの老朽化が著しく、東京市によって建て替えが行われました。
このときに鉄筋コンクリートで造ったことが幸いし、第二次大戦中の空襲でも焼けずに残り、現在もその姿を見ることができるのです。

ところがこの大門、近年になって問題が勃発しました。
昭和12年に建てた門も古くなり、修繕工事をしようとしたところ、なんと所有者が不明だったことが判明したのです。

増上寺としては東京市に寄付したつもりでおり、大門に設置されたプレートや昭和12年の建替工事から東京市もその認識だったことは間違いないのですが、事情はわからないものの東京都の財産目録に大門の記載がなく、公的には「所有者不明」であることがわかったのです。

改修工事を終えた現在の大門

結局は平成28年(2016)に東京都から増上寺に「無償譲渡」という形で増上寺が正式に所有することとなり、翌年耐震を兼ねて改修工事が行われました。
その経緯を記したプレートが大門に設置されています。

現在は交差点の名前にもなっている大門、交差点からはちょっと離れた場所にありますが、いまや芝と東海道のランドマークになっています。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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