2024.8.3
現在、品川駅西口は再開発のために工事中です。
この工事の進行によって移転するまでは、品川駅西口にはこのような碑が立っていました。
「品川駅創業記念碑」です。
日本最初の鉄道は、新橋駅と横浜駅をそれぞれ起点として明治5年9月12日に開業しました。
しかし、そのおよそ4ヶ月前の同年5月7日、仮開業として品川駅と横浜駅との間で鉄道の運行が開始されているのです。
それなら日本最初の鉄道は品川から横浜までを走っていたことになりますが、最初の鉄道は新橋から横浜までということになっています。
おそらく明治政府が公式に認めた開業日は新橋から横浜までが開業した明治5年10月14日だからでしょう。
なにしろこの日は明治天皇を新橋駅に迎えて開業式典を行っているのです。
それに5月7日以前にも試運転の名目で、何度も列車が運行されて明治政府の高官が利用しているのです。
どこかで線引きは必要でしょう。
ところで明治5年はなにかと忙しい年でして、東海道宿場制が廃止されたのもこの年ですし、暦をそれまでの太陰暦から太陽暦へ切り替えられたのもこの年です。
太陰暦(旧暦)の明治5年12月3日が太陽暦(新暦)の明治6年1月1日になりました。、そのため、上記の日付を現在のものになおしますと、
品川~横浜間の仮開業開始
(旧暦)明治5年5月7日 → (新暦)明治5年6月12日
新橋~横浜間の本開業開始
(旧暦)明治5年9月12日 → (新暦)明治5年10月14日
それゆえ日本最初の鉄道の開業を記念する「鉄道の日」は10月14日となっています。
新橋ではなく品川から横浜までで仮開業になった理由ですが、線路用地として海中に築いていた築堤の一部で工事が難航したためです。
鉄道建設が決まると、一斉に反対運動が起こりました。
地主が土地の収用に反対したり、兵部省が陸軍用地であった八ツ山の測量を拒絶したりしたため、海上に築堤を築いて線路を敷くこととなりました。
築堤は高輪沖と神奈川沖の2箇所に築かれました。
神奈川宿から横浜にいたる神奈川沖の築堤と、高輪沖の築堤のうち高輪大木戸から品川宿までの築堤工事はすんなりと進み明治5年4月には終了したのですが、芝から高輪大木戸までの築堤は風浪によって何度も破壊され、工事は同年9月までつづきました。
そのため同年1月には駅ができあがっていた品川と横浜との間で、先に鉄道を走らせることになりました。
仮開業初日の運行は2往復。
その時刻表が碑に記載されていました。
横浜発車 午前八字 品川到着 午前八字三十五分
品川発車 午前九字 横浜到着 午前九字三十五分
横浜発車 午後四字 品川到着 午後四字三十五分
品川発車 午後五字 横浜到着 午後五字三十五分
「時」ではなく「字」と書かれています。
また、本数が少ないのは、開業当時は単線だったことが理由としてあるようです。
1日2往復だったのは仮開業当日の5月7日だけで、翌8日には6往復、7月には8往復に増便されています。
また、現在は品川から横浜まで、途中で川崎に停車しても16~18分ですから、今よりもおよそ2倍の時間がかかったことがわかります。
残念ながら、現在は工事のために別所に碑が移転していて見ることができません。
再開発工事が終了すると、また品川駅の付近に戻ってくるそうです。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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