明治の終わりくらいまで、品川宿の東側は店の裏がすぐ海になっていました。
歌川広重もその様子を浮世絵に描いています。
埋め立てによって海は遠ざかりましたが、その名残は品川宿の路地に残っています。
日本橋から京都方向へと向かって歩いて行くと、左手の路地はみんな下り坂になっています。
これは東海道の左手が海だった名残なのです。
このうちの1本の坂道を下ります。
すると八ツ山通りに出ます。
八ツ山通りはかつての目黒川の河口部分を埋め立ててできた道路です。
昭和の初期ころまで目黒川は品川宿の中央付近で大きく流路を変えて流れていました。それが直線に付け替えられて現在の目黒川になったのです。
改修前の目黒川を挟んだ対岸が洲崎と呼ばれる漁師町(猟師町)でした。
品川は江戸城に魚を納入する御菜御肴八ヶ浦と呼ばれる漁港の1つだったのです。
目黒川沿いの半島状の土地だった洲崎も、今は周囲の海が埋め立てられて内陸の土地になっています。
ここにある神社が利田神社。浮世絵「名所江戸百景 品川すさき」にも描かれている神社です。
品川宿でもっとも大きなお寺だった東海寺の沢庵和尚が、洲崎の先端部に水と漁業の神である弁財天を祀ったのが始まりといわれています。
この利田神社のすぐ脇には、目黒川が埋め残された船溜まり。
そして利田神社脇の八ツ山通り沿いには鯨の像があります。
寛政10年(1798)、品川沖に巨大な鯨が現れました。
洲崎の漁師たちは船を繰り出してこれを仕留めました。
あまり大きな鯨だったため、江戸中から見物人が集まり、ついには将軍の耳にまで達して、11代将軍の徳川家斉まで見たいといいだしたそうです。
そのため鯨は海上を船で引かれて、将軍の別荘だった浜御殿(現在の浜離宮庭園)まで行ったのです。
その後鯨は当時の幕府の定めにしたがって解体され、肉などは競売にかけました。
残った骨は洲崎に埋葬され、塚が造られました。それが鯨塚です。
江戸時代のガイドブック「江戸名所図会」に描かれた洲崎と鯨塚がこちらです。
洲崎の宅地の整備にしたがって、今は鯨塚の上にあった石碑だけが、利田神社のすぐ横に移されて残されています。
鯨の像も鯨塚があったことにちなんで設置されているのです。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【画像出典等】
「東海道五拾三次之内 品川日之出」歌川広重
「名所江戸百景 品川すさき」歌川広重
「江戸名所図会」挿絵「洲崎弁天」
上記はいずれも国立国会図書館デジタルコレクションより
大正4年目黒川地図は国土地理院旧版地図謄本より作成
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 日帰りであるく東海道 第4期 国府津~元箱根月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
11月23日 国府津~小田原宿
12月28日 小田原宿~箱根湯本
1月25日 箱根湯本~元箱根
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第9期 国府~熱田宿月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅
開催日
2025年
1月12~13日 国府~岡崎宿
2月1~2日 岡崎宿~前後
3月1~2日 前後~熱田宿
参加費 各回6000円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
1月18日 日本橋~品川宿
2月15日 品川宿~蒲田
3月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第5期 元箱根~原宿月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
2月22日 元箱根~山中城
3月22日 山中城~三島宿
4月26日 三島宿~原宿
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
4月13日 日本橋~品川宿
5月11日 品川宿~蒲田
6月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円
最新のブログ記事
- 箱根の石畳 東海道五十三次最大の難所の実情は?東海道一といわれる難所である箱根は、江戸時代の石畳が残っていることで知られています。実際に歩いた感じでは、道の半分ほどは石畳です。でも本当は・・・
- 白河藩松平家 「べらぼう」で松平定信が嫌がった養子先とは?大河ドラマ「べらぼう」では、蔦屋重三郎の活躍の一方で、幕府内の権力争いなどが描かれています。その中で松平定信が嫌々ながら養子に行きました。養子先の白河の松平家とはどういう家なのでしょう?
- 正眼寺と曾我兄弟 東海道沿いになぜ曾我兄弟の墓があるのか?箱根宿に向けて坂道がつづく東海道。その途中に曾我兄弟のお墓があります。あまり目立たないお墓なのですが、なぜここに曾我兄弟の墓があるのかを探りました。
- 早雲寺 北条早雲の名を冠する箱根湯本のお寺箱根湯本にある早雲寺。箱根湯本から箱根宿へと向かう上り坂を少し登ったところにあります。東海道を先に進む前に、見ておきたいところを紹介します。
- 岡崎城のいま 時代とともに変化する徳川家康出生の城徳川家康が生まれた岡崎城。明治以降の解体や復元をへて、現在は新たな魅力を放っています。
- 築山御前と松平信康の首塚 東海道岡崎宿にある徳川家康の妻子の埋葬地徳川家康の正室築山殿と長男信康は、いずれも非業の死を遂げています。東海道岡崎宿にある彼らの首塚を訪ねました。
- 御油・赤坂の飯盛女 吉原だけじゃない!遊女たちの光と影大河ドラマ「べらぼう」の影響で、吉原の遊女たちの光と影が取り上げられることが増えましたが、光と影はなにも吉原だけにあったわけではありません。東海道五十三次の宿場で働いている飯盛女も同様です。それについて、飯盛女が多かったという御油宿と赤坂宿を取り上げました。
- 宿場の本来の機能とは? 「べらぼう」田沼意次の「宿場が潰れるとどうなる?」の真意2025年大河ドラマ「べらぼう」で田沼意次の言った「宿場が潰れるとどうなる?」とはどういう意味でしょう? これには宿場本来の機能がかかわっています。
- 投げ込み寺 「べらぼう」で蔦屋重三郎も嘆いた遊女たちの死の実態は?大河ドラマ「べらぼう」に出てきた死んだ遊女たちの埋葬シーン。いきなりショッキングなシーンでした。はたして彼女たちの埋葬地「投げ込み寺」の実態とは?
- 東海道保土ケ谷宿 初めての難所を控えた宿場の江戸時代後期のデータと現在の姿江戸時代後期に編纂された「東海同宿村大概帳」から保土ケ谷宿のデータをまとめました。江戸時代に書かれた絵や現在の写真と見比べてください。