2024.8.7
現在立会川の駅があるあたりには、江戸時代の終わりころには土佐藩山内家の下屋敷がありました。
日本沿岸に外国船が現れるようになり、嘉永6年(1853)にペリーが来航して以来、時代は「幕末」と呼ばれるようになります。
幕府は外国船対策として、大名たちに沿岸警備を命じます。
その一環として砲台も各所に築かれました。
土佐藩山内家でも嘉永7年に、下屋敷の前の浜辺に砲台を築きました。
これが浜川台場です。
「浜川」というのはこの地を流れる立会川の別名です。
東海道の橋が架けられ、「浜川橋」と呼ばれていました。
別名を「涙橋」。鈴ヶ森刑場に連れて行かれる人を、家族が見送ることが黙認されていたことが由来と言われています。
江戸時代までは東海道のすぐ近くまで海が迫っていました。
上の絵は鈴ヶ森を描いたものですが、明治時代の地図からしても隣の浜川も同じような風景だったと推測されます。
その海を埋め立てて、土佐藩は砲台を造りました。
海の埋め立てが進んだ現在の地図ではどこが台場だったのかよくわかりませんが、明治時代の地図には台場の跡らしきものが描かれています。
東海道を日本橋側から進んで浜川橋の手前左に曲がり、川沿いに東に進むと勝島運河に出ます。
この運河の岸の辺りまで土佐藩は埋め立てて、台場を建設したようです。
運河近くの公園には砲台跡のオブジェとして、大砲のレプリカが置いてあります。
浜川台場には全部で8門の大砲が設置されました。
説明板によると西洋砲であるホーイッスル砲が重さ1貫(約3.75キロ)の砲弾を撃てるもの2門、6貫の砲弾を撃てるものが1門、鉄製の和砲で5貫の砲弾を撃てるものが5門だったとのことです。
そのうちのもっとも大きかった6貫目ホーイッスル砲のレプリカが、公園に置いてあるものです。
説明板には「ホーイッスル砲」と書いてありますが、「ホーイッスル」とはオランダ語(houwitser)で、これだけで大砲の意味を含みます。
射角45度以上で射出する大砲のことで、弾道が空中で曲線を描いて着弾しますので、砲撃対象との間に障害物があっても攻撃することができるタイプです。
ほぼ直線的な弾道を描くカノンとは対照的な大砲です。
※危険ですから筒先に立ってはいけません。
立ってはいけませんっ!
この台場が築かれたころ、坂本龍馬も江戸にいました。
坂本龍馬が浜川台場に詰めていたかどうかは明らかではないのですが、彼はこのころ家族に宛てた手紙に「異人の首を取って帰る」という意味のこと書いていますので、それを根拠に浜川台場に詰めていたと考える人もいます。
そのため立会川駅前の商店街の中、駅近くの公園には坂本龍馬像が置かれています。
幕末の有名人である坂本龍馬が立会川にいたとなると、地元の人はうれしいでしょう。
浜島台場はいつ廃止されたのかはっきりしないのですが、埋め立てられた土地はその後も利用され、周囲はさらに埋め立てが進み、さらに昭和14年(1939)から10年かけて勝島が造成されて、それまでの陸地の間が勝島運河となりました。
かつては海沿いだった東海道の景色も、道の両側にビルや商店が建ち並ぶものに変わっています。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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