2024.8.8

東海道品川宿もまもなく終わろうかというところで、道端に大きなお地蔵さんがいらっしゃいます。

品川宿の地蔵菩薩の大仏

江戸時代中期に深川のお坊さん地蔵坊正元という人が寄進を集めて造ったもので、江戸の町を取り囲むように江戸へから始まる各街道沿いに6体の青銅製の地蔵菩薩像が設置されました。
これを江戸の六地蔵といいます。

置かれた場所は
東海道 品川 品川寺
中山道 巣鴨 真性寺
日光道中 浅草 東禅寺
甲州道中 新宿 太宗時
水戸街道 深川 霊巌時
千葉街道 深川 永代寺
の6か所です。
このうち深川にあった千葉街道に相当する1体は明治初期の廃仏毀釈で破壊されたため、現在5体の地蔵像が残っていますが、深川にあった2体の地蔵像については水戸街道と千葉街道からずれた場所にあるように思われます。

品川宿のお地蔵様の大仏がある場所は、真言宗のお寺、品川寺の門前となります。
「江戸名所図会」にも、この大仏は載っています。

「江戸名所図会」の挿絵に描かれた品川寺と大仏
国立国会図書館デジタルコレクションより

品川寺と書いて、読み方は「ほんせんじ」です。
大同年間(806~810)に弘法大師が関東で布教を行ったとき、この地の豪族の品河氏に水月観音を与えたのが始まりと品川寺に伝わっています。
これが本当ならば、品川でもっとも古いお寺です。

品川宿品川寺

古いお寺だけあって、品川寺にはいろいろなものがあります。

門前の左側には地蔵菩薩の大仏がありますが、右側には高野山からきたという宝篋印塔が置かれています。

門前の宝篋印塔

この宝篋印塔はもともと1対で、もうひとつは今も高野山にあるそうです。

門を入ると右手にはイチョウの古木、その根元には自然石を彫った巨大な庚申塔、通称「光明石」があります。

光明石(右の石塔)とイチョウの古木

この石が光を放つことがあったので「光明石」と呼ばれるようになったそうです。
光を放つってなんでしょうね? 石自体が光ったのか、陽の光を反射しただけなのか?

そして本尊は弘法大師から授かったとされる水月観音。
この本堂内にあります。

品川寺本堂

戦国時代には武田信玄に品川が攻められたことがあり、武田の兵によって持ち去られたそうです。
ところが持ち去った兵が発狂してしまったため、それを恐れて返されたという伝説があります。

このお寺の境内では高野山からきた山伏たちによって火渡りが行われます。
私も1度見たことがあるのですが、彼らは燃えさかる炎の上を平然と歩くんです。
熱いのは必死に我慢できるとしても、服に火が燃え移らないのが不思議でした。

品川寺境内の火渡り

そこで近くにいたお坊さんに尋ねたところ
「彼らは厳しい修行を積んでいるからです」(合掌)

もう、なにも返す言葉がありません。

ところでガレージの屋上には救世観世音菩薩像と馬・犬・鳩の像があります。
戦争中に徴用されて、軍馬、軍用犬、伝書鳩として海外に連れて行かれた動物たちです。
戦争に負けたとき、兵士たちを帰国させるのが精一杯で、動物たちのほとんどは戦地に置き去りにされました。
その動物たちを供養するために像が建てられたのだそうです。
悲しい話です。

一方で戻ってきたものもあります。
梵鐘です。

こちらは幕末に経緯は不明ながら海外に持ち出され(パリ万博に出品されたとも言われています)、その後行方不明となってしまったものです。
大正8年(1919)にスイスのジュネーヴにあるアリアナ美術館で見つかり、昭和5年(1930)に品川寺に戻ってきたのです。
「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。

品川宿の地蔵菩薩の大仏

美術館ではスタッフが涙ながらに見送り、日本では日比谷公園で盛大な式典が行われ、その後品川まで牛車に乗せられて戻ってきました。

この鐘は明暦3年(1657)に鋳造されたもので、古いというだけではなく、観音菩薩像と徳川家康、秀忠、家光の3代の将軍の諡号が彫られたもので、美術品的価値も高いものです。

鐘の返還から60年を記念して、平成3年(1991)に品川区とジュネーヴ市は友好都市となり、その後品川寺近くの青物横丁駅前の道が「ジュネーヴ平和通り」と名付けられました。

ジュネーヴ平和通り

門前の地蔵の大仏が目立つため、大仏様だけを見て行き過ぎてしまうことが多い品川寺。
ほかにも見るべきものがたくさんあります。
大仏だけではなく、是非品川寺にお参りをして境内もご覧になってください。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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