2024.8.10

東海道をはじめとする江戸時代の街道には、問屋場や本陣、立場などさまざまな施設や設備が設けられていました。

街道の距離を表す一里塚もそのひとつです。

天保14年(1843)に編纂された「東海道宿村大概帳」では東海道の距離は126里となっていて、この数字が一人歩きしている感がありますが、一里塚が築造された江戸時代初期には、東海道の距離は120里だと認識されていました。

天和年間に成立したとされる「東海道絵図」には、一里塚に江戸からと京都までの里数が記載されています。
これが最後の一里塚である日ノ岡の一里塚です。

「東海道絵図」の日ノ岡の一里塚
国立国会図書館デジタルコレクションより(以下同じ)

江戸より百十九里 京都まで一里

と書いてあります。

それでは最初の一里塚があったのはどこかといいますと、1里目と2里目は築かれていませんでした。
日本橋から1里目に相当する場所は芝の増上寺付近、2里目に相当する場所は品川宿でしたので、すでに人家が隙間なく立ち並んでいたために、一里塚を造る余地がなかったためではないかと思われます。

そんなわけで東海道最初の一里塚は、3里目の大森に設けられていました。

「東海道絵図」の大森の一里塚

場所は内川橋を渡ったところですが、一里塚は現存していません。
以前は内川橋よりも国道15号との合流点に近いところに説明板が設置してありましたが、現在はありません。

かつてあった一里塚の説明板
一里塚説明板

なお、現存する一里塚としては、横浜市鶴見区の市場村の一里塚が最初です。
江戸から5里目にあたります。

「東海道絵図」の市場村の一里塚

ただしここは盛り土がちょっとだけ残っていて、その上に稲荷神社が建てられている場所で、とても一里塚には見えません。

現在の市場村の一里塚

一里塚と見てわかる形のものが現存している最初の場所は、横浜市戸塚区の品濃一里塚です。

品濃一里塚 右の塚
品濃一里塚 左の塚

江戸から9里目にあたります。

「東海道絵図」の品濃一里塚

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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