2024.8.11
品川宿からつづく東海道を真っ直ぐに歩いていくと、国道と合流する少し手前に神社と幼稚園があります。
浜川神社です。
浜川神社の社号塔をよくみると・・・
この浜川神社は「厄神」、つまり疫病神を祭神とする神社なのです。
もともとは厄神大権現と呼ばれていた、現在のお寺とも神社ともちょっとちがう宗教施設で、天保年間(1781~89)に教光院了善という修験者が創始したといわれています。
それが現在の浜川神社となったのは、明治初めの神仏分離によります。
それまで仏教も神道も一緒くたで、日本土俗の信仰だったり、それらのどれにも当てはまらない信仰だったものまで仏教・神道と混ぜこぜになって信仰されていたものを、明治政府が「古事記・日本書紀の神は神道へ、仏典の仏は仏教へ」とはっきり区別することを命じたのです。
これによって神道でも仏教でもないもののほとんどは、古事記や日本書紀に出てくる神様に入れ替えられたり同一視される形で、神道に組み込まれました。
厄神大権現も、祭神をスサノヲノミコト、オオクニヌシノミコト、スクナビコナノミコトに入れ替えて浜川神社となったのです。
しかし、明治以降も厄神に対する信仰はつづいたようです。
それは社号塔に書かれた「厄神」の文字からも見て取れます。
では厄神とはなんなのか?
それは疫病をもたらす神のことです。
そしてこの場合の疫病とは、具体的には疱瘡、つまり天然痘のことです。
明治時代にコッホや北里柴三郎ら医業の先覚者たちによって感染症のメカニズム解明と治療法の発案がされるまで、日本では疫病はそれをもたらす神の仕業と思われ、治療法は加持祈祷など信仰にもとづく行為が中心でした。
疱瘡は大人も罹り死に至る病気ですが、多くの場合は子供が罹り、10歳を迎える前に死ぬ最大の原因でした。
江戸時代まで日本人の平均的な死亡年齢が低かったのは、子供のうちに死ぬことが多かったためとされています。
そのため「子供も7歳までは神のうち」という言い方もされていました。
子供はいつ死ぬかわからないため、まだこの世のものとは思わないという、半ば諦めにちかいような気持ちから、このような言い方がされていたようです。
保土ケ谷宿の道祖神に伝わっているような、神が子供と遊ぶ伝承は、「子供は神のうち」という考え方の表れだとも考えられています。
それにそもそも道祖神は、村に疫病が入ってくるのを防ぐための神様です。
疫病除けの信仰には道祖神以外にも、たとえば牛頭天王やスサノヲノミコトを祀る祇園信仰や、その一環ともいえる茅の輪くぐり、または生麦の「蛇も蚊も」のように藁で作った蛇を川や海に流すという習慣は日本各地にあります。
これに対してストレートに疫病を神として祀るのが、浜川神社などでみられる厄神信仰です。
疱瘡をもたらす存在を「厄神」として神として祀り、それによって疫病をもたらさないようにおとなしくしてもらうというのが厄神信仰なのです。
この厄神を祀る信仰は浜川神社が始まりだとされています。
そもそも昔は病気が治るように祈祷することも修験者の仕事でした。
厄神大権現を創設した教光院了善は11代将軍徳川家斉の病気を祈祷によって治したともいわれる修験者で、浜川にやってきた後も周辺の人たちの病気治癒のために祈祷などをしていたのでしょう。
これによって疫病、特に疱瘡の流行を抑えるために厄神を神として祀る宗教施設が作られ、明治以降は祭神を入れ替えて浜川神社となったと考えられます。
東海道沿いをさらに進んだところにある茅ヶ崎の神明神社には「厄神大権現」と刻まれた石塔がありますが、これは茅ヶ崎の立場であった南湖村の人たちが疱瘡除けの集まり(講)を作り、浜川神社を信仰していた名残です。
このように厄神信仰のはじまりとなった浜川神社は、関東南部を中心に広く信仰を集めることとなりました。
東海道を歩いて旅するときでも素通りしてしまうことが多い浜川神社は地味な神社ですが、厄神信仰の始まりの場所として重要な神社なのです。
※ビルの建て替えのため、浜川神社は現在解体されています。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【画像出典・参照文献】
「北里研究所一覧」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
「厄神と福神」「災厄と信仰」ともに大島建彦著
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