2024.8.15

川崎宿

川崎宿に入りました。

川崎宿は多摩川の流れによってつくられた低地帯に、土砂が堆積してできた土地です。
いまも「砂子」という地名があります。
江戸時代のはじめころまでは人家もまばらで、ほどんどが荒れ地だったと思われます。

そのため宿場に指定されたのも通説では元和9年(1623)と、ほとんどの宿場が指定された慶長6年(1601)より20年以上も遅くなっています。

それでも川崎は400年を超える歴史を持つ町です。
今回は川崎宿のお寺に残るお墓から、これまでの川崎宿を形作った先人たちの足跡を簡単に見てみましょう。

【おねがい】
お墓に行くときは「お参り」という心を忘れないでください。
お墓の前ではまず最初に一礼と合掌をしましょう。
写真などを撮るのはその後です。
墓地で大声で話す、はしゃぐ、写真だけ撮って帰るなど、そこに眠っている人たちに対して非礼な行いはしてはいけません。

今回ご紹介するお寺は、一行寺、宗三寺、妙遠寺です。

まず一行寺。
ここは川崎の「おえんまさま」として閻魔大王が広く信仰されているお寺です。
→「おえんまさま」はこちら

残念ながら江戸時代からあった閻魔像は戦争で焼けてしまいました。
現在の閻魔像は戦後再建されたものです。
門の両側にあったイチョウも、1本が焼けてしまい、いまは左側だけ残っています。

一行寺

このお寺には、川崎宿で江戸時代後期に寺子屋「玉淵堂」を開いていた漢学者の浅井忠良のお墓があります。

浅野忠良の墓

能書家でもあり、川崎宿の江戸方の入口にあった茶屋(後に旅籠)の万年に「亀齢館」という額を書いています。

こちらは幕末ころの富士講の先達西川満の墓。

西川満の墓

富士講とは富士山を神として信仰する団体のことです。
多摩川の両岸の信者を集めてタテカワ講という富士講を組織しました。
先達というのは富士山詣でのとき先導する人、つまりは富士講の宗教指導者です。

タテカワ講関連のものとしては、川崎宿の京方の入口にあたる教安寺にタテカワ講が建てた常夜灯が残っています。

教安寺の常夜灯

次は一行寺のとなりにある宗三寺。

宗三寺

このお寺は廃れていたところを戦国時代にこの地の豪族の間宮信盛が再興したと伝わっています。
その間宮信盛のお墓がこちら。

間宮信盛の墓

中興開山として住職たちのお墓の横にあります。
間宮信盛の子孫の間宮氏は小田原の北条氏の家臣です。
東海道を歩いて箱根を越えるとき山中城跡を通りますが、そこで戦死した武将間宮康俊が信盛の子孫だといわれています。

山中城跡

この宗三寺の墓地の一番奥には、飯盛女の供養塔があります。

飯盛女の供養塔

飯盛女は宿場で旅籠にいた遊女です。
そのため東海道の宿場のほとんどは遊郭化していたのですが、明治以降は飯盛女のいる旅籠は貸座敷と名を変えます。
その貸座敷の組合が建てた供養塔です。

ところで、宗三寺には1992年のバルセロナオリンピックの柔道金メダリスト、古賀稔彦さんのお墓もあります。

古賀稔彦氏の墓

最後に妙遠寺です。

昭和27年(1952)に移転したため、いまは宿場から少し離れたところにあります。
しかし川崎宿が成立したときには宿場内のもっとも大きなお寺で、当時はまだなかった本陣に代わって大名たちの宿泊場所となっていたというお寺です。

妙遠寺

ここには「川崎の恩人」小泉次大夫のお墓があります。

小泉次大夫の墓(左)

そして銅像も。

小泉次大夫像

小泉次大夫は徳川家康の家臣の旗本です。
多摩川両岸の代官を務めていました。
多摩川の氾濫が相次いで荒れ果てた多摩川南岸に二ヶ領用水という用水路を開いて、川崎に農地を開き、人が住める場所にしたといわれています。

荒廃した多摩川沿いの土地に今のような町ができるまで、さまざまな人の働きがありました。
川崎の先人たちに興味がある人は、川崎宿交流館にも展示がありますので、こちらもお勧めします。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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