2024.8.16
川崎宿は六郷の渡し場の側から久根崎、新宿、砂子、小土呂の4つの町から成り立っていました。
その地名由来を調べると、川崎の土地柄や宿場の成り立ちの理由が見えてきます。
久根崎(くねざき)
「クネ」とは垣根、畝道、土手を意味する古い言葉です。
「サキ」は前だとすると、多摩川の土手を前にした土地という意味になります。
また、「クネ」には境という意味もありますので、荏原郡と橘樹郡の境である多摩川を前にした土地という意味にも受け取れます。
元和9年(1623)に川崎が宿場に指定されたときには、ほかにめぼしい町はなかったらしく、久根崎と砂子だけが宿場となりました。
そのことから久根崎は多摩川の渡し場から川崎大師へと至る大師道にかけて人家が並んでいた場所だったのでしょう。
茶屋から後に大旅籠になる万年は、渡し場の前にあった店でした。
店のあった場所は東海道の東側ですが、説明板は西側に設置されています。
また、明治32年(1899)には大師電気鉄道の川崎駅(後の六郷橋駅)が設置されたのも久根崎です。
新宿(しんしゅく)
元和9年に川崎宿ができたころには、ただ縄手道だったと伝わっています。
このころすでに町があったのかどうかは明らかではありませんが、後に宿場に加えられたところからすると、後述の小土呂同様に人を移住させて町の体裁を整えたと思われます。
川崎宿成立の5年後、寛永4年(1627)から川崎宿に加わりました。
翌年、田中兵庫家が本陣を命じられ、川崎宿で最初の本陣となりました。
天明2年(1782)には、新宿に寺子屋が設けられました。
開設した人は浅井忠良、やはり新宿にある一行寺にお墓があります。
→浅井忠良の墓はこちらの記事
砂子(いさご)
「イサゴ」というのは砂地のことで、多摩川の河口近くの砂州に集落があったことが地名の由来と考えられます。
川崎宿が元和9年に宿場になったときから町がありました。
川崎の開発を行った幕府代官の小泉次大夫も、もともと武蔵小杉にあった妙泉寺を元和のはじめころに砂子に移しての妙遠寺としたとされています。
中の本陣と佐藤本陣も、この砂子にありました。
ところで、現在でも川崎では東海道のある場所がほかの土地よりも高くなっています。
これは東海道を整備するときに砂を寄せ集めて高くしたか、あるいはもともと砂が高く雪寄せられていた場所を東海道にしたものと考えられます。
砂子の地名由来として、浜辺に打ち上げられた薬師如来を砂を寄せ集めたところに安置し、それが宗三寺の本尊となったという伝承があります。
このあたり、なにか関わりがあるような気がします。
小土呂(こどろ)
「トロ」「ドロ」は川が曲がって流れが淀んだところを指す言葉で、漢字で書くと「瀞」。小土呂も「小瀞」が原義で、はるか昔の多摩川がこのあたりで曲がっていたのではないかと考えられます。
川崎宿はもともと久根崎と砂子の2つの町から始まり、小土呂は後から宿場に加えられた町だとされています。
宿場に加わったのは新宿と同じ寛永4年(1627)、このときにもっと南に住んでいた人たちを移住させて小土呂に新たな町を造ったとのことです。
明治35年(1902)に旧旅籠だった貸座敷業者を小土呂の南東に移しました。
これが小土呂新地で、歓楽街として賑わい「川崎遊郭」とも呼ばれていました。
小土呂には新川堀という水路があり、東海道には橋が架けられていました。
最後の橋は寛保3年(1743)のもので、これに大正時代に造られた親柱が付けられていました。
新川堀は昭和6年(1931)に暗渠化され、石製の橋は地中に埋められ、親柱は近くの民家に引き取られ、後に教安寺に移されました。
小土呂の交差点が橋の跡地に当たります。
教安寺にあった親柱は昭和59年(1984)に小土呂交差点に移されました。
その翌年には交差点の地中から寛保3年(1743)の石橋も掘り出され、現在は稲毛神社の境内に置かれています。
最後に「川崎」の由来について
ヤマトタケルの東征の途中、妻のオトタチバナヒメは荒れた海を鎮めるために入水してしまいました。
その後、ヤマトタケルは、オトタチバナヒメが身につけていた革が浜に打ち上げられているのを見つけました。
「ヒメの遺品の革が見つかるとは幸先よい。吉祥だ」
「革、吉祥」→「革、祥」→「かわ、さち」→「かわさき」となったそうです。
う、うそでしょ?!
もちろんこの地名由来は事実ではないとでしょう。
「この話、おもしろい!」と思ったときは、だいたいウソです。
いったん立ち止まって考えて、けっして鵜呑みにしてはいけません。
水面に飛び出した陸地のことを「崎」と言います。
多摩川の河口にある三角州が海に飛び出した地形だから「川崎」だというのが通説です。
川崎市もこの説を採っています。
ただし「川崎地名辞典」という本はこれを否定し、全国にある川崎・河崎という地名で河口近くの土地は少なく、共通点は川を前にしていることだと書いています。
川崎宿も「川前」が由来で、岬地形の「崎」は本来は関係ないだろうと結論しています。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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