2024.8.16

川崎宿の京都側には一直線の道があります。
八丁畷です。

八丁畷

京急線の駅名の由来ともなっている道です。
「畷」(縄手)とは一直線の道のことです。

「長さが8丁(約900メートル)あるから八丁畷」というわけですが、実は東海道には「八丁畷」と呼ばれている場所が何か所かありまして、「七丁畷」とか「九丁畷」などと呼ばれている場所は1か所もないのです。

だからある程度の長さがある一直線の道は、語呂の良さからみんな「八丁畷」と呼ばれているのでしょう。

江戸時代の絵図を見ると、八丁畷は川崎宿から市場村(現在の横浜市鶴見区市場)まで続いています。

京急線の駅前には慰霊塔もあります。
八丁畷からは工事などの折に古い人骨が発見されることが多く、それらの人々を供養するものです。
旅人や流民が川崎宿で死んだ場合に、宿場郊外の八丁畷で埋葬していたと考えられます。

八丁畷の慰霊塔

ちなみに江戸時代に旅人が持っていた道中手形は、旅人の住居地のお寺や名主が発行する身分証明書なのですが、「死んだ場合は当地で埋葬して結構。連絡不要」というような一文が入っていたりします。

この八丁畷に、松尾芭蕉の句碑があります。
碑のある場所は八丁畷駅のすぐ近く、京急線の線路沿いです。

八丁畷の松尾芭蕉句碑

松尾芭蕉は日本史上もっとも有名なホームレスで、その後半生はパトロンや門弟の家を泊まり歩く生活をしながら、東海道を何度も往来したのをはじめとして、あちこちに旅をしながら生活していました。

江戸では門弟の杉山杉風のもっていた土地に建てた小屋「芭蕉庵」に寝泊まりさせてもらってましたし、大津では義仲寺(木曽義仲の墓のある寺)などで寝泊まりしていました。

深川の芭蕉庵跡の碑
大津の義仲寺

ちなみに、松尾芭蕉が住んでいたことから「芭蕉庵」ではなく、芭蕉庵に住んでいたことから「松尾芭蕉」と呼ばれるようになりました。
本名は松尾宗房、俳号桃青。自分では「芭蕉庵桃青」と名乗っていました。

元禄7年(1694)5月、松尾芭蕉は51歳のとき、江戸から故郷の伊賀上野へと旅立ちます。
本人にその気はなかったでしょうが、これが芭蕉最後の旅になります。
ここを発った芭蕉は伊賀上野に到着後、大津や京都などを訪れ、大坂の門弟を訪ねたところ悪寒や頭痛を覚え、その後は寝たり起きたりの生活になってその年の10月に世を去ってしまうのです。

その最後の旅に出るときに、川崎宿まで門弟や友人が見送りに来て、茶店で送別の句会が開かれています。
そのときに詠まれた

「麦の穂を たよりにつかむ別れかな」

の碑が、文政13年(1830)に川崎の俳人一種によって建てられたのです。

江戸時代の東海道の絵図を見ると、川崎宿の京口(京都側の宿場入口)から市場村までは、松並木があるだけで人家が1軒も描かれていません。
現在八丁畷駅があるあたりは、まったく何もない場所だったようなのです。
ですから芭蕉の送別の句会も碑のある場所ではなく、川崎宿の京口になった茶店だったようです。

川崎宿京口跡

本来はこの句碑も京口の教安寺のそばにあったそうなのですが、宅地開発などの事情で小土呂の人家の庭石になっていたものが、昭和10年(1935)に現在の場所に移されたそうです。

東海道を歩いて旅するみなさん、俳句に興味がなくてもこの碑には是非とも注目してください。
だって芭蕉は9回も東海道を歩いた、東海道歩き旅の大先輩なのです。

松尾芭蕉肖像画
杉山杉風筆 義仲寺にて撮影

だから東海道を歩くと、大津までの間に松尾芭蕉のゆかりの地と句碑に無数に出会うことになります。
大先輩にはまず挨拶をしておきましょう。

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

東海道歩き旅イベント 参加者募集中

それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。

「日帰りで歩く東海道」  日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」  原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。

以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。

一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。

最新のブログ記事