2024.8.18
鶴見川にかかる鶴見川橋です。
江戸時代にはまだ多摩川には橋が架けられていませんでした。
そのため日本橋を出発した東海道の旅人が、初めて渡る本格的な橋がこの橋でした。
橋が架けられたのは江戸時代初めころだと思われますが、架橋時期の詳細については不明です。
おそらく、東海道の宿場制が始まった慶長6年(1601)ころのことと思われます。
江戸時代から昭和前期までは「鶴見橋」と呼ばれていました。
先代の鶴見川橋は昭和28年(1953)に架けられたものです。このときから橋の名前が鶴見川橋となりました。
きれいなアーチが頭上に2つの弧を描く現在の橋になったのは、平成9年(1997)のことです。
この橋は、江戸時代の市場村と鶴見村の境となっていました。
橋をはさんだ2つの村の東海道沿いで売られていたのが「よねまんじゅう」です。
多いときには40軒ものお店で売られていたそうですが、鉄道の開設などによって東海道の旅人が減ったことで、よねまんじゅうを売るお店もすべてなくなってしまいました。
鶴見側の橋のたもとには鶴見橋関門旧蹟の碑があります。
鶴見橋関門とは、幕末に外国人を殺傷するテロが頻発したことから、横浜を警護するために主要道路に設けられた関門の1つです。
東海道沿いでは神奈川台の上にも同じ目的の関門が設けられました。
そこにも碑が建てられています。
鶴見橋関門の碑を建てたのは鶴見の人、黒川荘三。
この黒川荘三は建碑マニアでして、一説には横浜近辺に100基以上もの碑を建てたともいわれています。
キリンビール横浜工場前にある生麦事件の碑も、黒川荘三が建てたものです。
鶴見橋関門の碑は明治15年(1882)に建てられました。
しかし、第二次大戦中の空襲によって碑は破壊され、現在のものは昭和45年(1970)に地元の有志の人たちによって再建されたものです。
橋からもう少し鶴見駅に近づいたところには、寺尾稲荷への道しるべがあります。
寺尾稲荷は馬術上達の御利益があり、現在は馬場稲荷と呼ばれています。
この道しるべは何度も建て直されていて、宝永2年、寛延3年、文政11年、そして現在のものと4回にわたって建てられたものです。
実は先代の文政11年(1828)のものは現存していて、近くの鶴見神社の境内に移設されています。
早い話が、現在ここに立っているものは、文政11年に造られた道しるべのレプリカなのです。
図書館の前を過ぎると傘のお化けみたいなオブジェ。
これは「旅立ち」の像と言いまして、彫金作家の二口金一氏が横浜トリエンナーレに出品した作品です。
鶴見橋周辺には、昔のものも今のものもいろいろなものがあるのです。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 日帰りであるく東海道 第4期 国府津~元箱根開催日時
11月23日 国府津~小田原宿
12月28日 小田原宿~箱根湯本
1月25日 箱根湯本~元箱根
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第8期 磐田~国府開催日
10月5~6日 磐田~高塚(受付終了)
11月2~3日 高塚~二川宿(受付終了)
12月7~8日 二川宿~国府
参加費 各回5500円 - 京都まであるく東海道 第9期 国府~熱田宿開催日
2025年
1月12~13日 国府~岡崎宿
2月1~2日 岡崎宿~前後
3月1~2日 前後~熱田宿
参加費 各回6000円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦開催日時
2025年
1月18日 日本橋~品川宿
2月15日 品川宿~蒲田
3月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦開催日時
2025年
4月13日 日本橋~品川宿
5月11日 品川宿~蒲田
6月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円
※当面の間は日本橋から新たに出発する予定はありません。上記のイベントへのご参加をお勧めします。
最新のブログ記事
- 宮代屋事件 明治初期の大磯で起きた大事件明治前期の日本を襲った大不況の中で、大磯宿では凄惨な事件が起こっています。東海道沿いに説明板などは設置されていませんが、事件を伝える碑があります。
- 茶屋の薬師堂 夜に歩く石地蔵の謎相模国二宮の川匂神社、その参道は東海道から始まっています。参道入口にある薬師堂には、夜になると地蔵が歩くという伝説があるのです。信じますか?
- 吾妻神社 なぜ二宮町にヤマトタケルの伝説があるのか?二宮町に入った東海道を歩いていると、吾妻神社の鳥居があります。ここが参道入口で、吾妻山を登ったところに神社があります。ヤマトタケルの妻を祀ったこの神社、その由緒とは?
- 等覚院 「藤巻寺」と呼ばれる二宮町の真言宗寺院二宮町にある等覚院は「藤巻寺」の異名のあるお寺です。徳川家光や仁和寺宮も鑑賞した藤とは、どのような花なのでしょうか。
- 国府本郷の一里塚跡 大磯の西にもあった一里塚の跡東海道には一里塚が設置されていました。大磯宿の西にもありました。一里塚の説明板が設置してあります。でも本当に一里塚があったのはここではなくて・・・
- 大磯切通し 戦国武将はなぜ大磯に陣を布くのか?東海道大磯宿から西へと歩いて行くと、道が切通しを通ります。江戸時代前期にはすでにあった切通し。この切通しのおかげで大磯は戦国時代の重要地になりました。
- 鴫立庵 西行ゆかりの大磯宿最大の観光名所江戸時代初期に成り立った鴫立庵は、江戸時代の東海道大磯宿で最大の観光スポットでした。現在も年間1万人もの人が訪れる鴫立庵を簡単に紹介します。
- 海水浴発祥の地 混浴禁止?! 医療行為?! 大磯の初めて物語日本最初の海水浴場が開かれたのが、かつて東海道の宿場として賑わっていた大磯でした。でも、当初の海水浴はいまとはだいぶ様子が違っていたようです。
- 榮太樓の別荘 日本橋の老舗が大磯宿に築いた別荘日本橋の南詰にある和菓子の老舗榮太樓総本舗。この店の主人の別荘が大磯宿にあったのです。今も残るその遺構とは?
- 東海道五十七次(3) 江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ?もともとは江戸と京都とを結んでいた東海道が、後には豊臣秀吉が整備した京街道と接続され、東海道が五十七次となりました。この大阪までの道を、江戸幕府が管理しようとした理由は何だったんでしょう?