2024.8.24

江戸時代には御菜肴八ヶ浦と定められた8か所の漁村がありました。
江戸時代中期までは、これらの漁村には江戸城に海産物を献納するという役務が課されていました。
言ってみれば、物納税です。

当初は月に3回の物納でしたが、寛政4年(1792)からは金納に変わりました。
ただ、その後も毎月初漁でとれた魚介類は献上していたようです。

その8か所の漁村は、金杉、本芝、品川、大井御林、羽田、生麦、新宿、神奈川です。
羽田以外はすべて東海道沿いの村でした。
このうちの「新宿」は現在の子安にあたります。

鶴見から神奈川宿にかけての東海道沿いは、浦島太郎に関する伝説ものこる漁村だった地域です。
しかし現在ではそのほとんどで海が埋め立てられています。
子安も例外ではありません。
この付近は弁護士・国会議員・事業家、そして法政大学理事などで知られる守屋此助によって埋め立てられました。

埋め立て地に「守屋町」の地名があるのはこのためです。

かつて東海道のすぐ近くまで迫っていた海岸線は、現在は運河の縁としてその名残をとどめています。
その運河の上にまで、いまや高速道路が建設されて、かつての御菜肴八ヶ浦の面影はまったくありません。

とおもったら・・・

運河に出てみます。

な ん と 漁 港 が !

子安にはかつて2つの漁業協同組合がありましたが、海の埋め立ての進行によって昭和46年(1971)に横浜市が全漁業者から漁業権を買い取り、いったんは漁業は途絶しました。

ところが4年後の昭和50年より、一部の漁業者によって漁業権のいらないアナゴ漁が再開されました。
現在でも漁業を続けている漁業者は横浜東漁業協同組合を結成し、現在も漁業を続けています。

ただ、漁業者の数は年々減少し、廃船や運河沿いに並んだ漁業倉庫などの中には所有関係が複雑で、使われなくなったもののそのまま放置されているという問題も生じているようです。

高速道路やマンション、工場が建ち並ぶ中の運河に多数の漁船が係留されている光景はなかなか壮観です。
江戸時代以前からの漁村の歴史を今に伝え、そして推し進められた開発によって生じた問題もかかえる子安の漁港。
なにごとも知ることは大切なことです。
東海道を歩く途中、ほんの少し寄り道するだけでこの事実に触れることができます。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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