2024.8.28

歌川広重が描いた神奈川宿です。

東海道五拾三次 神奈川台の景

この絵は神奈川宿を京都側に出たところにある高台、神奈川台を描いたものです。
海に面した切り立った崖と、そこに沿って上り坂がつづく東海道。
海が広がる景観とそれを見下ろす崖沿いの茶屋街を、小さなキャンバスの中に見事な構図で再現した歌川広重は、天才としかいいようがありません。

東海道五拾三次 神奈川台の景

そして現在の神奈川台がこれ。
海も崖も見えません。
坂の途中に日本料理店があります。
田中家です。

田中家

ここは江戸時代の後期まで「さくら屋」という名称の茶屋でした。
幕末の文久3年(1863)に晝間弥兵衛がさくら屋を買収し、田中家となったのです。

「江戸名所図会」の挿絵に描かれた神奈川台の茶屋街
「江戸名所図会」に描かれたさくらや
2枚とも国立国会図書館デジタルコレクションより

明治に入ってからは、坂本龍馬の未亡人であるお龍が、勝海舟の紹介で仲居として働いていたこともあるお店です。

店の裏に回ってみます。

田中家の裏

急 階 段 !

階段の下は今は町ですが、かつてここは海だったのです。
この階段を降りて、下から見上げると・・・

今も残っている崖

崖 !

東海道の坂道を歩いているときはわかりませんでしたが、浮世絵に描かれた崖は今も残っているのです。

なぜ海が消えたのか?
原因はこの人です。

高島嘉右衛門

高島嘉右衛門です。
高島易断の創始者として有名ですが、占い師が本業じゃありません。
明治の近代化を推し進めた事業家の一人です。

明治24年国土地理院旧版地図謄本「横浜」より作製

高島嘉右衛門がこの海の中に築堤を築き、その上を日本最初の鉄道が走りました。
そしてその後、築堤から神奈川台の崖下までの海も埋め立てて、この土地を分譲して高島嘉右衛門は巨万の富を得たそうです。

こうして鉄道沿いの埋め立て地に付けられた地名が「高島町」。

明治24年国土地理院旧版地図謄本「横浜」より作製

高島町という地名は昭和7年に消滅しましたが、明治の前期には遊郭もできて大変賑わった場所だったようです。
現在は横浜市営地下鉄(ブルーライン)の駅名として、名称が残っているだけとなりました。

広重の浮世絵の風景が変遷した背景には、こんな事情があったのです。

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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