2024.9.5
品濃一里塚のすぐ近くの共同墓地の中に、古いお墓があります。
江戸幕府の旗本で品濃村を治めていた新見氏の墓です。
「新見」と書いて「しんみ」と読みます。
もともとはよくある「にいみ」という名字だったのですが、徳川家康が「しんみ」にしろと言ったのだそうです。
私の想像ですけど、家康が名字を読み間違えたとか、そんな理由じゃないかな?
旗本新見家は徳川家康に仕えた新見正勝に始まり、江戸時代後期には大坂町奉行を務めた正路、その子で外国奉行として日米修好通商条約批准書交換のためにアメリカに行った正興などがいます。
新見正勝は徳川家康が遠江攻略を始めたころに徳川家配下に加わったとされています。
東海道藤枝宿にあった田中城攻略戦や、家康が豊臣秀吉と争った小牧長久手合戦などに参陣したそうです。
天正18年(1590)の徳川家康の江戸入りによって、品濃村など合計800石を知行地として与えられました。
正勝は寛永17年(1640)に隠居して品濃村に住み、2年後に86歳で没しました。当時としては驚異的な長寿です。
死後は品濃村にあった白旗神社の境内に葬られ、墓が建てられました。
以上は「寛政重修諸家譜」によったんですが、そこに不思議な記述があるんですよね。
新見正勝は徳川家康の家臣なのに、まだ小田原の北条氏が関東を支配していた天正9年(1581)から品濃村に住んでいたというのです。
すると戸塚に住んだまま家康の軍事行動に参加していたことになります。
「ゆえあって」とかいう書き方をしてますが、不思議というほかありません。
時代は200年ほど下って新見正路は大坂町奉行になりました。
文政12年(1829)に大坂西町奉行になりました。
良い政策をいろいろ行って、名奉行と呼ばれていたそうです。
その1つが淀川の浚渫です。
土砂が堆積して船の運航などに支障が出ていた淀川の浚渫を指揮したのです。
その土を淀川の河口近くに積み上げたのが、日本一低い山として知られる天保山です。
標高4.5メートルしかありません。
権太坂や品濃坂の方がはるかに高い!
ただ、日本一低い山は地震や津波でたびたび変わったり、天保山が国土地理院の地図に記載されたりされなかったりしていますので、いつも天保山とは限りません。
正路は、品濃村にあった先祖の正勝の墓が荒れていたのを建て直したそうです。
(正路の子の正興が建て直したという話もあります)
それが今、共同墓地の中にある右のお墓です。
そのころはまだ白旗神社の境内にありました。
正路は嘉永元年(1848)に没し、自分も白旗神社の境内に葬られました。
お墓を建てたのは跡継ぎの正興、そのお墓が墓所の左側のお墓です。
正路が死んだ5年後、大事件が起こります。
ペリーが黒船の艦隊を率いて日本にやってきたのです。
日本は開国することとなり、アメリカと貿易をはじめました。
そのための条約が日米修好通商条約です。
条約が発効するためには、双方の代表者が署名した批准書を交換します。
日本側で署名した批准書をアメリカまで届けに行ったのが、外国奉行であった正興なのです。
正興の時代にはすでに写真がありましたから、彼の写真が残っています。
条約批准のために訪れたワシントンのホテルで撮影されたものです。
真ん中に写っているのが、新見正興です。
写真に写っている新見正興、彫りの深い日本人ばなれした顔でイケメンです。
この美貌が後に子孫の人生に影響をあたえてしまうんですね。
ちなみに右に写っている人、たぶん正興より有名人です。
小栗上野介として知られる小栗正順です。
正興たちは万延元年(1860)に太平洋回りの航路でアメリカへ行き、大西洋回りで日本に帰ってきました。
もちろん地球を一周した初めての日本人です。
新見正興は明治2年(1869)に没しました。
墓所は中野区の願正寺。
お墓に行った覚えがあるんですが、なぜか写真が見つかりません。
さて新見家は正興の死後に没落します。
娘たちのうち未婚だった2人は養女として引き取られることになり、あろうことか養父によって柳橋の芸者置屋に売られてしまいました。
ところが姉妹は正興ゆずりの美貌で、またたく間に売れっ子芸者になったそうです。
特に妹は政府高官の伊藤博文と柳原前光の取り合いになり、結局柳原前光が落籍して妾にしてしまいました。
そして生まれた女の子も正興と母親に似て美貌でした。
後に恋愛スキャンダルで一世を風靡する歌人の柳原白蓮です。
娘と孫の人生まで変えてしまった新見正興の美貌ですが、ウィキペディアによると彼はあまりの美男子ぶりに、幕府内で「陰間侍」とあだ名されていたそうです。
なんちゅう陰湿な。
ところで、白旗神社にあった新見家のお墓です。
昭和55年(1980)に東戸塚駅が開業し、周囲の農村で大開発が行われてショッピングセンターとマンション街ができました。
そのために白旗神社の境内にあった新見家のお墓も移転して、そのほかの古いお墓も移転してできた共同墓地に現在はあるのだそうです。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【写真出典】
「幕末・明治・大正回顧八十年」
「万延元年第一遣米使節日記」
いずもれ国立国会図書館デジタルコレクションより
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