2024.9.6

鎌倉幕府が滅びて室町幕府が成立するころまでの時代を、南北朝時代と呼んでいます。
「太平記」などにも描かれた戦乱の時代でした。

後醍醐天皇や足利尊氏など、多くの人物が活躍し、あるいは滅びていった時代ですが、その中に護良親王という人物がいます。

後醍醐天皇の皇子でありながら、武将でもあった人物です。

混乱を極めた時代の中で、鎌倉幕府を倒すために大きな役割を果たしたのですが、後醍醐天皇の親政が始まると鎌倉に幽閉され、やがて殺されてしまいました。

その首が保土ケ谷宿と戸塚宿の間の東海道沿いに埋葬されているという伝承があります。

鎌倉幕府が滅びたとき、幕府内の実力者だった元執権の北条高時の子供のひとりが脱出して諏訪まで逃げていきました。
アニメ化された「逃げ上手の若君」のモデル、北条時行です。

かれは諏訪の豪族たちに担ぎ上げられて建武2年(1335)に挙兵し、鎌倉を攻め落とします。
このとき鎌倉を守備していた足利尊氏の弟直義は、幽閉していた護良親王を殺害して鎌倉から退去しました。

以上が歴史上の事実とされるもの、ここから後は伝承です。

殺された護良親王の首を彼の侍女が持って逃げ、それを東海道沿いに埋葬したという話が、横浜市戸塚区柏尾に伝わっているのです。

首を持って東海道を柏尾まで来たときに侍女は病気で動けなくなり、この地の豪族である斎藤家にかくまわれ、親王の首を近くの高台の上に埋葬したと伝わるのです。
とにかく護良親王の首が埋葬されたと伝わる場所には神社が建てられました。
それが王子神社です。

王子神社

以上の話は伝承ですので、小異のある話がいくつもあります。
たとえば首を持って逃げたのは侍女ではなく家臣だった、側室だった、首を埋めた場所に神社を建てたのではなく、神社の本殿の下に埋葬したなどです。

また、なぜ鎌倉から東海道を京都方面に行ったところではなく、反対方向にある柏尾にこの話が伝わっているのかについてはよくわかりません。

柏尾は江戸時代には東海道の立場があった場所です。
現在は丘陵と柏尾川に挟まれた狭い土地に国道1号になった東海道があり、その道に沿って住宅とお店、山崎パンなどの工場が並んでいます。

神社の入口は東海道からだいぶ離れていますので、東海道を歩いている途中で神社に立ち寄るのは大変です。
ただ、東海道のすぐ近くの高台の上に社殿がありますので、すき家のあたりから屋根が見えます。

この神社の境内には「護良親王御しるしお鎮の松」の切り株もあります。
松の木は落雷で枯れてしまったと聞きました。

護良親王御しるしお鎮の松

神社は東海道から遠いのですが、東海道近くには埋葬する前に首を洗い清めたという「護良親王首洗いの井戸」の跡まであります。

護良親王首洗いの井戸の碑

残念ながら、井戸は残っていません。
井戸枠の形をした石が置かれ、碑があるだけです。

石の井戸枠

さらに不思議なことに、東海道をさらに西に進んで三島宿を過ぎると、清水町の黄瀬川沿いの智方神社にも護良親王の首を埋葬したという伝説があります。

智方神社にある首塚

護良親王は実在の人物であったと考えられますが、非常に伝承の多い人物です。
戸塚区と清水町以外にも護良親王の首を埋葬した伝承地があると聞いたこともあります。

護良親王の首は、はたしていったいどこへ・・・?

   

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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