2024.●.●6
天保14年(1843)ころの調査結果をまとめた「東海道宿村大概帳」から引用した神奈川宿のデータです。
人口 5793人(男2944人 女2849人)
戸数 1341軒
本陣 西之町1軒、滝之町1軒
脇本陣 なし
旅籠屋 合計45軒 大10軒 中15軒 小20軒
問屋場 九番町に1か所
高札場 滝の橋脇に1か所
道幅 3間~4間
歌川広重が「神奈川宿」として描いた場所は、実は神奈川宿の外にあたります。
神奈川宿は現在は国道15号(第一京浜)沿いとそれとつながる宮前商店街から三宝寺前付近までとなります。
神奈川宿は慶長6年(1601)の東海道宿場制がはじまったときからの宿場です。
陸路・海路両方の要衝で、1000戸を越える家屋が東海道沿いに並ぶ江戸時代の大都市でした。
東海道をはさんで江戸側の神奈川町、京側の青木町の2つの町から成り立っていました。
南北朝時代の文書にはすでに神奈川に湊があったことが書かれていますので、それ以前から湊町として栄えた場所でした。
商業的なだけでなく、漁業を営む湊でもありました。
江戸時代には獲れた鯛を江戸城に献上していたほどです。
浦島太郎の伝説が神奈川宿にあるのも、神奈川がこのような湊町だったことと関わりがあると思われます。
そんな神奈川宿が激変したのは安政5年(1858)です。
幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5か国と結んだ修好通商条約によって長かった鎖国が終わり、神奈川が開港地となったことでした。
実際に開港したのは湾を挟んだ横浜となりましたが、神奈川にはロシアを除く4か国の領事館が置かれたり、外国人が居留することとなりました。
神奈川宿について、今回も「東海道宿村大概帳」を中心に江戸時代後期のデータを見ていきます。
神奈川宿は6000人近い人口をもち、1000軒以上の家屋が建ち並ぶ、当時としては大都市でした。
その人口の多さは、やはり港があったことで商業が発展していたことによるものでしょう。
また、東海道の宿場には珍しく男の人数が女の人数より多くなっています。
宿場では女の方が人数が多いのは、多くの旅籠で飯盛女を抱えていたため。
男の方が多い神奈川宿は、宿場としては珍しい事例といえます。
1341軒という戸数は両隣の宿場である川崎宿の541軒、保土ケ谷宿の558軒と比べても2倍以上、さらに戸塚宿の613軒、藤沢宿の919軒と比べても多いことがわかります。
本陣は2軒ありました。
西之町は神奈川町の字名、同じく滝之町は青木町の字名です。
そのため「東海道宿村大概帳」に西之町と書いてあるのが神奈川本陣の石井家、滝之町と書いてあるのが青木本陣の鈴木家のことです。
神奈川本陣の跡には歩道に2軒の本陣についての説明が出ています。
また、本陣跡地の裏手には「明治天皇行在所之蹟」の碑が建てられています。
青木本陣は滝野川を挟んで神奈川本陣のはす向かいにあったのですが、道路が大幅に拡張されており、実際に本陣があった場所は現在は国道15号になっている場所と考えられます。
国道の反対側の歩道には、神奈川宿の本陣跡の説明板があります。
人口と戸数の多さに比べて、旅籠の数が少ないのも神奈川宿の特徴の1つです。
戸数541軒のうち72軒が旅籠だった川崎宿とくらべると、戸数1341軒のうち旅籠が45軒しかなかった神奈川宿はいかに少ないかがわかります
先に書いた男女の人数比が男の方が多いのも、旅籠が少なく飯盛女も少なかったことが原因と考えられます。
問屋場があったという九番町も神奈川町の字名の1つです。
場所は現在の神奈川警察署の向かいくらい。
ただし東海道は国道15号として大幅に拡張されていますので、正確には警察署前の道路の真ん中辺りに問屋場がありました。
高札場は滝の川にかかる滝の橋のたもと、日本橋側にありました。
この項札場は復元されて、現在は神奈川地区センターの前に置かれています。
道幅については「東海道宿村大概帳」には記載がありませんでしたので、享和3年の「神奈川宿明細書控」から引用しました。
3間は約5.5メートル、4間は約7.3メートル
神奈川宿の入口についてです。
「東海道宿村大概帳」には記述がないのですが、日本橋側(江戸側・東側)については「東海道分間延絵図」や「金川砂子」といった絵図に長延寺の前に土居が描かれる形で記されています。
京側(西側)については、「東海道分間延絵図」「金川砂子」にはそれらしき記載がありません。
しかし「東海道宿村大概帳」には宿場内の距離が参拾四丁1間と書いてあります。
これは約2017メートルに相当します。
長延寺の前から2017メートル進んだ先は青木橋を渡って三宝寺や金刀比羅宮の前、一里塚跡などの説明板のある付近になります。
「東海道宿村大概帳」には一里塚は神奈川宿内と書かれていますので、上記の寺社と一里塚があったところまでが神奈川宿と考えてよいでしょう。
神奈川宿の京都側の入口は、この付近だったと考えられます。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【画像出典】
「武相叢書」
「維新秘史 日米外交の真相」
「御開港横濱之全図」
いずれも国立国会図書館デジタルコレクションより
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 京都まであるく東海道 第11期 土山宿~三条大橋月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅 最終章
開催日時
2025年
9月27~28日 土山宿~石部宿
11月1~2日 石部宿~石山
12月6~7日 石山~三条大橋
参加費 各回6500円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月4日 日本橋~品川宿
11月1日 品川宿~蒲田
12月6日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第2期 生麦~藤沢宿月に1回、日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月12日 生麦~保土ケ谷宿
11月9日 保土ケ谷宿~戸塚宿
12月14日 戸塚宿~藤沢宿
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第3期 藤沢宿~国府津月に1回、日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
10月18日9:00~16:30ころ
11月15日9:00~16:30ころ
12月20日9:00~16:30ころ
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第6期 原宿~岡部宿月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月25~26日 原宿~蒲原宿
11月22~23日 蒲原宿~東静岡
12月27~28日 東静岡~岡部宿
参加費 各回5000円
最新のブログ記事
- 「べらぼう」を先取り 江戸城内の見取図で見る田沼意知刺傷事件天明4年に田沼意知が佐野政言に江戸城御殿内で斬りつけられる事件が起こりました。大河ドラマ「べらぼう」でもキーポイントとなるこの事件を、江戸城御殿の見取図で追いました。
- 田沼意知刺傷事件 江戸城内で何が起こったのか?大河ドラマ「べらぼう」にも描かれた佐野政言による田沼意知刺傷事件。事件当時の様子はどのようなものだったのでしょうか? 「営中刃傷記」をもとに再現します。
- 佐野政言の屋敷跡 「佐野の桜」はどこにあった?田沼意次の子、意知に江戸城内で切りかかって意知を死に至らしめた佐野政言。「佐野の桜」と呼ばれる桜の木があったその屋敷はどこにあったのでしょう?
- 松平康福と水野忠友 沼津城と2人の老中東海道沼津宿には、戦国時代末期と江戸時代の後半に城がありました。それぞれの城に関わった人たちやその子孫は、江戸幕府の老中を務めるほどになっています。
- 鴫立庵と宿屋飯盛 “歌聖”をギャグネタにした男大河ドラマ「べらぼう」にも登場する狂歌師、宿屋飯盛。蔦屋重三郎の墓碑銘を書いた人物です。この宿屋飯盛、東海道大磯宿の名所にも関わりがあったのです。