2024.10.10
はじめて征夷大将軍として幕府をひらいた源頼朝は、建久9年12月(1198)に新たに相模川に架けられた橋の渡り初めに行った帰りに落馬し、その後半月ほどたった翌年1月に鎌倉で没したといわれています。
→源頼朝落馬の地
時は流れて大正12年(1923)、関東大震災とその余震による液状化現象で、茅ヶ崎市内の田んぼから大きな丸太が9本生えてきました。
これが落馬する前に頼朝が行った相模川の橋の橋脚だと考えられています。
建久6年3月に、源頼朝は妻の政子や子供たち、そして大勢の御家人を引き連れて上洛しています。
平氏一族や木曾義仲が滅ぼされた治承・寿永の戦乱の中で焼失した東大寺が再建されたので、その法要に出席するためです。
頼朝たちはけっこう長く畿内に留まって、京都の朝廷や貴族に贈り物をするなどの政治活動をしたのち、6月にようやく帰途につきました。
このときの上洛に従っていた御家人たちの中に、稲毛重成がいました。
稲毛重成ってだれ? という人も多いと思いますが、NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」をご覧になられたなら、畠山重忠謀殺の全責任をかぶせられて殺されてしまった武士を思い出してください。
あの中川大志君退場回のときに縛られて出てきて、小栗旬さんの北条義時に死罪を命じられてしまった人です。
稲毛重成の妻は北条時政の娘、北条義時のたぶん妹にあたる女性です。
つまり政子を妻とする源頼朝の義理の弟にあたります。
頼朝とともに京を発ち、鎌倉に向かう途中の美濃の青墓(岐阜県大垣市)で、稲毛重成は妻が危篤という知らせを受けます。
このとき頼朝は、自分のもっていた駿馬を重成に与えました。
この馬はとんでもなく足が速く、3日後には鎌倉に到着し、重成は妻を看取ることができたと「吾妻鏡」に記載されています。
この妻の供養のために、それまで橋のなかった相模川に、重成は橋を架けたのです。
橋が完成したところで、馬を与えてくれた頼朝への礼として、橋供養と渡り初めに招いたのです。
そしてその帰り道に頼朝は落馬し、半月後に没しました。
当時の相模川は現在よりも東にあり、いく筋にも分流していたと考えられています。
その流れのうちの1本は、小出川や新湘南バイパスと国道1号(東海道)が交わる辺りにあり、小出川とはほぼ直角の方向に北西から南東に流れていたと考えられます。
→当時の相模川の流れ(茅ヶ崎市作成のPDF)
ここに架けられていた幅約9メートル、長さが40メートル以上の橋の橋脚の遺構が、関東大震災によって発見されたのです。
→発見時の様子(茅ヶ崎市作成のPDF)
この橋脚が、稲毛重成がかけ橋供養に訪れた帰りに源頼朝が落馬をしたその橋のものだと考えられているのです。
これら9本の丸太は、発見後すぐに保存措置として池が掘られ、その中に長らく置かれていました。
→大正時代の保存池(茅ヶ崎市作成のPDF)
大正15年には国の史跡に指定されましたが、保存池の中で橋脚の腐朽が進んでいるのが認められたため、平成13年(2001)から保存整備事業が行われました。
このとき改めて発掘調査が行われ、さらに1本の橋脚と土留めの遺構が発見され、全部で10本の橋脚は保存措置が執られた上で地中に埋め戻されました。
→橋脚の発掘調査の様子
→発見された土留め遺構
(いずれも茅ヶ崎市作成のPDF)
その埋め戻されたちょうど真上に橋脚のレプリカが設置され、大正時代に造られた保存池を復元したものが、現在見られる旧相模川橋脚遺構なのです。
平成10年(1998)にはまだ本物が見られました。そのときに撮影した写真です。
ここは鎌倉時代の橋の遺構が見つかっただけでなく、関東大震災の液状化現象の痕跡が発見され調査が行われたという非常に貴重な遺跡です。
現在遺跡の周囲は公園になっていて、多くのベンチも設置されています。
東海道を歩く途中で休憩するのにも打ってつけの場所です。
橋脚のすぐ目の前にある和菓子店「でかまん」で買った名物のお饅頭でも食べながら、貴重な遺跡のを眺めて休憩しましょう。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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