2024.10.14
「番町皿屋敷」という怪談話があります。
もちろん本当の話ではなく、江戸時代後期から明治初期にかけての噂話などを取り込んで明治の劇作家の河竹黙阿弥が創作した物語です。
番町(現在の千代田区一番町から六番町付近)にあった旗本青山家に奉公に出たお菊は、主人の青山大膳が家宝としていた10枚の皿のうち1枚を割ってしまい(大膳から懸想されたのを断ったため、皿を割ったという濡れ衣を着せられて)、大膳に斬り殺されて遺体を井戸に投げ捨てられてしまいました。
その後、夜な夜な井戸から「1枚・・・2枚・・・」と9枚まで数える女の声が聞こえるようになり、青山家では次々と不幸や怪事件が起こってついに改易になってしまったという物語です。
この物語で殺されてしまうお菊が、平塚宿の出身らしいのです。
平塚宿に伝わる話では、お菊は宿役人真壁源右衛門の娘ということになっています。
お菊は青山家、あるいは水野家の江戸の屋敷に奉公に出ました。
奉公先にブレがあるのは、「伝承」なのでしかたのないところかも知れません。
ところがお菊は主人の怒りを買い、24歳のときに手打ちにされて遺体となって平塚に帰ってきました。
遺体は長持の中に詰められており、それを父の真壁源右衛門が馬入の渡しまで迎えに行きました。
お菊の遺体は真壁家の墓所に埋葬されましたが、奉公先を慮って墓石は建てず、埋葬地に栴檀の木を植えました。
以上が平塚宿に伝わるお菊の物語です。
さて、この伝承のどこまでが信じられるのでしょうか?
まず真壁家ですが、平塚宿に実在します。
平塚宿にはいまも子孫の方々がお住まいとのことですし、国道1号の北にある墓地には真壁家代々の墓所がちゃんとあります。
真壁家は屋号は伊勢屋、平塚宿の有力者で地元の人から「代官さん」と呼ばれていたそうです。
「真壁源右衛門」についてはどうでしょうか?
この「源右衛門」なる人物も実在したことはほぼ間違いありません。
なぜならば平塚八幡宮の明和2年(1765)製の銅鳥居に刻まれた寄進者名の中に「真壁源右衛門」の名があるからです。
ただし、当時の人たちは当主を継ぐと同じ名前を名乗ることが多かったので、鳥居に名前が刻まれた源右衛門がお菊の父親かどうかまではわかりません。
宿役人という点はどうでしょう?
宿役人とは問屋場で働いている人たちのことです。
問屋職や年寄はもちろん、記録係の帳付、荷物運びの馬と人足を手配する馬指、人足指も含まれます。
真壁源右衛門が問屋職や年寄ならば、幕府や小田原藩に提出した書面などに署名が残っている場合があります。
そこで「平塚市史」の資料編を見てみると、「平塚宿問屋 源右衛門」と署名のある書面が元禄4年(1691)、正徳2年(1712)、享保3年(1718)にそれぞれ書かれた3通が掲載されていました。
それぞれ幕府に対して提出されたもので、平塚にあるということは提出に当たって写しを作成し、それが残っていたものと推察されます。
幕府に提出する書面に、農民である宿場の人たちが苗字を記載することはまずありませんので、「平塚宿問屋 源右衛門」が真壁源右衛門のことではない可能性もありますが、江戸時代前半の平塚宿の問屋職を「源右衛門」という人物が務めていたことは確かです。
平塚宿には慶安4年(1651)に加宿(宿場を拡張すること)が行われ、従前の平塚宿の東側に平塚新宿が成立しました。
平塚新宿は平塚八幡宮の門前町だったところです。
加宿にあたっては、この門前町から24軒が従前からの平塚宿に移住することを命じられ、その地に新たに東組問屋場が設けられました。
門前町の人たちは嫌がったのですが、真壁源右衛門が説得して、自ら率先して東海道沿いに移住することで幕府が求める24軒の移住を成し遂げています。
この移住以降、真壁源右衛門は東組問屋場の付近に住んだそうです。
ただし現在は、東組問屋場の碑の近辺の表札を見る限り真壁姓のお宅はありません。
この東組問屋場の問屋宿を、江戸時代前半は真壁家が務めていたと考えられます。
さて、お菊の埋葬と栴檀の木ですが、現在の紅谷公園の一帯は昭和27年(1952)に戦後復興のための区画整理が行われるまで真壁家の墓所だった場所です。
この場所は平塚新宿、つまり移住前の真壁家があったと考えられる地域にあたります。
ここに栴檀の木があったのですが、昭和20年7月の空襲で焼けてしまいました。
区画整理のために真壁家代々のお墓も改葬されたのですが、そのときに栴檀が生えていた跡地を掘ったところ、女性のものと思われる小ぶりな頭骨が発見されたそうです。
この頭骨がお菊のものかどうかは特定できませんが、伝説どおりに栴檀の木が誰かの墓であったことはわかりました。
その地は現在公園となり、公園の中に「お菊塚」と刻まれた石碑が建てられています。
新たに石碑の横には栴檀の木も植えられています。
これら平塚に伝わる物語を知った河竹黙阿弥が「怪談番町皿屋敷」を書いたのか、そうではなくてこの芝居がヒットしたことで真壁家墓所にある栴檀の木がお菊の墓として語られるようになったのか、どちらであるのかはわかりません。「番町皿屋敷」と平塚宿のかかわりが、このような形で伝わっていることだけは事実です。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
【参照文献・画像出典】
「新平塚風土記稿」
「平塚の史跡と文化財めぐり」
「平塚市史2・4」
「平塚市文化財調査報告書17」
以上はいずれも平塚市教育委員会編
河竹黙阿弥写真・月岡芳年浮世絵 国立国会図書館デジタルコレクションより
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