江戸時代に整備された日本の最主要街道が東海道です。
実は飛鳥時代にはすでに東海道の前身となった道はあったのです(古事記のヤマトタケルの項に出てきます)が、官道として宿場制度が確立したのは江戸時代の初期のことです。
徳川家康が関ヶ原合戦に勝って天下人となり、江戸と近畿とを結ぶ交通インフラ整備に着手したときに、最初に手がけたのが東海道です。
徳川家康が征夷大将軍となり幕府を開いたのが慶長8年(1603)、東海道宿場制の制定はその2年前ですから、厳密に言うと東海道は江戸時代が始まる直前に整備されました。
江戸幕府は慶長6年(1601)に東海道沿いの主立った村に伝馬朱印状を交付し、これが最初の宿場の成立とされています。このとき成立した宿場の数は推定されるものも含めて45でしたが、その後徐々に他の宿場も整備され、最後に寛永元年(1624)に庄野宿が成立し、江戸と京都との間には53の宿場が設けられることとなりました。
これが「東海道五十三次」です。
宿場というのは継立場を設けるのが必須条件です。
継立場とは人と馬が運んで来た荷物を受け渡しするところ、問屋場という宿場機能の事務所にあります。
この継立場が53箇所あるから「五十三次(継)」なのです。
「東海道五十三次」は歌川広重も浮世絵に描くなど有名ですが、ときどき「東海道五十七次」という言葉も聞きます。
これは東海道の宿場の数が53箇所なのか、本当は57箇所にあったとかいうような、どちらが正しいという話ではありません。
当初江戸幕府によって東海道が整備されたときは、京都との間に53箇所の宿場が設けられました。
ところがそれから18年後の元和5年(1619)、53番目の宿場だった大津宿と京都三条大橋との間から分かれていた道が大坂まで整備され、大津宿と大坂の高麗橋との間に4つの宿場が設けられたのです。
そこで東海道は
京都までが五十三次
大坂までが五十七次
となったのです。
大津宿を出ると、歌枕として知られる逢坂山があります。
現在逢坂山のてっぺんに逢坂の関の碑がありますが、本当は大津側の麓にありました。
この逢坂山を越えたところから道が二手に分かれます。
髭茶屋追分と呼ばれる場所です。あるいは山科追分、大津追分という言い方もします。
ここから右が京都へ向かう道、左が大坂に向かう道なのです。
この大坂に向かう道が「五十七次」の道となります。
大津宿までの53の宿場と、この先にある伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿があり、大坂の高麗橋へとつながっています。
高麗橋は大坂の東の入口にあたります。
この道を最初に造った人は豊臣秀吉とされています。
秀吉は天正11年(1583)に大坂城(現大阪城)、天正16年(1588)に淀城、文禄3年(1594)には伏見城を築き、大坂城と淀城には妻の淀君や子の秀頼を住まわせ、伏見城を自らの政庁としました。
この大坂城・淀城・伏見城のラインを一直線に結んだ道が、高麗橋へといたる「五十七次の道」の前身となったのです。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城は炎上し、徳川幕府によって新たに建て直されました。
こうして大坂城は幕府直轄となりました。大坂城には大坂城代や旗本たちが幕府から送り込まれました。
そして秀吉が造った大坂城から伏見城へと至る道が、幕府から東海道の髭茶屋追分から伏見へとつづく道とつなげられ、幕府の道中奉行が管轄することとなりました。
こうして東海道の一部として扱われるようになったのが「東海道五十七次」の髭茶屋追分から左に分かれる道なのです。
大坂はもともと大きな町だったことに加えて、江戸時代には商業が盛んな経済都市になり、淀川の舟運の拠点ともなり、経済と交通・運輸の重要拠点となりました。
ただ、街道整備がなされたころ、大坂は徳川対豊臣の史上最大の戦争で荒廃していたはずです。
ここへ通じる街道を東海道の一部として整備した幕府が、大坂がここまで復興することを見越していたのかどうかについては、私にとってちょっと気になるところではあります。
→東海道五十七次(2)大阪へと向かう東海道の「つづき」の成立ち
→東海道五十七次(3)江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ?
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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