豊臣秀吉が造った大坂城、淀城、伏見城を結ぶ道をもとにして、「東海道五十三次」の最後の宿場である大津宿の先にある髭茶屋追分から大坂の高麗橋との間に、元和5年(1619)に幕府が街道を整備しました。
この大津と大阪を結ぶ街道にある4つの宿場、これを東海道の53箇所の宿場と合わせて「東海道五十七次」と呼ぶことがあります。
この街道ができた経緯と呼び名などについて、もう少しお話しします。
豊臣秀吉は家族の住居として大坂城を天正11年(1583)に、淀城を天正16年に、政庁として伏見城を文禄3年(1594)に築きました。
秀吉は大坂城の築城にともなって城の防塁の一部という意味合いももって淀川の最下流部の堤をまず築いた可能性が挙げられています。
さらに伏見城ができあがると前田利家、徳川家康らに命じて伏見付近の堤を造り、2年後の慶長元年(1596)からは毛利輝元、小早川隆景、吉川広家など毛利一族や東国大名たちに命じて伏見より下流の堤を築かせたと考えられています。
この堤のうち淀川の左岸のものを江戸時代には河内堤、のちに文禄堤と呼ぶようになりました。
秀吉はこの文禄堤の上に幹線道路を造りました。
治水・運輸、そして軍用道路と3つの用途のインフラを一挙にまかなったのです。
秀吉、なかなかやります。
若い女と黄金にうつつを抜かしていた爺さんのイメージとは大分違います。(偏見です)
この道は伏見に到達した後、伏見街道や竹田街道で京都へとまっすぐつながっていました。
当たり前です。
秀吉の目的は、大坂城から京都へとつながる道を造ることだったからです。
行き先が京都だから、名前も「京街道」。
江戸時代の東海道五十七次の道とはそこがちがいます。
さて、そのころの日本ですが、淀城ができあがった後、秀吉は全国の大名を引き連れて小田原遠征を敢行します。
小田原の北条氏は天正18年(1590)に降伏し、徳川家康は江戸へ移り、旧徳川領の東海道沿いの諸城には秀吉の側近だった武将たちが入りました。
秀吉は京都の南に伏見城を築きはじめ、その周りには諸大名に屋敷を建てさせて住まわせ、ここで政治を行いました。
伏見城建設中の文禄元年(1592)に、秀吉は朝鮮出兵という対外戦争を始め、そして戦争まっただ中の慶長3年(1598)に死んでしまいました。
秀吉の死後、豊臣政権下での最大の実力者であった徳川家康は、対抗勢力を関ヶ原合戦の勝利によって一掃し、事実上の日本の支配者となりました。
そして始まった家康によるインフラ整備で、江戸と京都を結ぶ東海道五十三次ができあがりました。
慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣が起こり、秀吉の子である豊臣秀頼は滅ぼされました。
7月に改元があり、この年が元和元年となります。
元和5年(1619)に大坂が幕府の直轄領となります。
その翌年から幕府によって大坂城の再建が始まり、約10年かけて完成するわけですが、幕府によって伏見にある京街道の北端が東海道がつながって幕府の管理下に入ったのは、元和5年に大坂が幕府直轄領になったときと考えられています。
おそらく城づくりよりも先に町の復興の形が見えてきたことが、直轄領化の理由なのでしょう。
伏見へは東海道53番目の宿場、大津宿のすぐ西にある逢坂山の、その京都に近い山科側の麓から道がつながりました。
おそらくそれ以前から道はあったものと思われます。
その道を幕府の管理する官道とし、その先にあった伏見、淀の2つの城下町と、そこから大坂との間にある枚方、守口の併せて4つの町をあらたに宿場として整備したのでしょう。
逢坂山の麓にあった道の分かれ目は、土地の名前をとって大津追分、あるいは山科追分と呼ばれていました。髭茶屋追分という呼び方もありますが、これはこの地にあった茶屋の主人がヒゲ面だったことが由来だと伝わっています。
この道の呼び名については、ちょっと複雑です。
今は一般的に「京街道」と呼ばれています。
これは秀吉が造った文禄堤の道が、大坂から京都へと向かう道だったことから、そのときの呼び名が継承されたものだと考えられます。
これに対して元和5年に江戸幕府によって整備された道は、大津宿側から見て髭茶屋追分から先の大阪方面へと向かう道を「伏見街道」、あるいは「大坂街道」や「河内道」と呼んでいました。
ややこしいことに、大津宿側では髭茶屋追分から京都方面へと向かう道のことを「京街道」と呼んでいました。
一方で大坂側から見た場合には、髭茶屋追分から江戸へと向かう道を「東宿」と呼んでいたそうです。
東国に向かって53箇所の宿場があることが、呼び名の由来のようです。
街道というのは行き先の終着点の土地名が呼び名になることが多いのです。
それが髭茶屋追分から大坂へとつづく道の呼び名の複雑さにつながっているのです。
→東海道五十七次(1)五十三次ならぬ五十七次とは、いったい何?
→東海道五十七次(3)江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ?
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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