東海道で8番目の宿場は大磯宿です。

歌川広重「東海道五拾三次之内 大磯虎ヶ雨」

大磯宿は、この絵のとおり宿場の中ほどで道が右にカーブしていました。
そしてそのカーブの部分には、日本の高等教育に大きな足跡を残した新島襄の終焉の地があります。

新島襄終焉の地の碑

この碑は同志社大学が、新島襄没後50年に際して昭和15年に建立したものです。
文字は新島の初期の教え子でもある徳富蘇峰(正敬)によるものです。

今は旧東海道のカーブの内側に国道1号が走っていて、碑がある場所は日本橋から三条大橋をめざして東海道を歩いた場合、国道の左側にあたります。
碑の近くに設置されている説明板には、「療養先の大磯百足屋旅館で47歳で病死した」旨のことが書いてあります。

碑のある場所は赤矢印のところ、国道の左側
その左の細い道が東海道

でも本当は、新島襄の終焉の地はここではないのです!

新島襄が病死したのは実は国道の右側なのです。
それではなぜ、国道の左側に碑が建てられているのでしょうか?

まずは大磯宿にあった百足屋について。
この百足屋は、江戸時代から大磯宿に存続する旅籠だった宿ではありません。
大磯宿では明治18年(1885)に照ヶ崎海岸に日本で最初の海水浴場が開かれました。
それによって大磯には海水浴に訪れる人たちが増え、彼らのために多くの旅館が設けられました。

大磯に海水浴場を開き、これを奨励したのは元軍医総監の松本順。

松本順 「民間治療法改訂3版」より

幕末に松本良順という名前で新選組と行動を共にしていたことで知られています。
松本が奨励した海水浴は海で泳ぐことではなく、海水に全身を打たれることで健康を増進させるというものでした。

だから海中に杭を打ち、そこに捕まって波の満ち引きに身を任せるのが初期の海水浴でした。
ただ、当時の書物の記事を読んでも、海水浴の機会に海で泳ぐ人たちはすぐに出てきたようです。

小国政「大磯海水浴富士遠景図」明治26年
ちなみに富士山の左は箱根の二子山

松本順の提唱した海水浴は療養法だったことから、療養目的で宿泊する旅館が大磯には多数建ちました。
温泉地によっては、療養目的で宿泊する人たちのための宿があるのと同じように考えればよいと思います。

百足屋もそのような療養用の旅館の一つでした。
建てた人は後に大磯町長も務めた宮代謙吉です。
松本が初めての海水浴場を開こうとしたとき、多くの人が反対しました。
小田原に海水浴場を開こうとして地元の有力者たちの反対にあい、そこで大磯で海水浴場を開いたのです。

海水浴場のあった照ヶ崎海岸にある松本先生謝恩の碑

大磯でも多くの反対にあいましたが、宮代謙吉ら少数の人たちが松本を支援し、海水浴場の開設にこぎつけたのです。
2年後の明治20年の鉄道駅の開設とも相まって、大磯は海水浴客で賑わうようになりました。
こうして多くの海水浴客用の旅館が建ち、そのうちの1軒が海水浴場開設の功労者でもある宮代謙吉が経営する百足屋だったのです。

ところで新島襄は京都に設立した同志社大学の運営資金の調達のため、関東に出張していました。
その途中で体調を崩し、話題の療養地だった大磯に来て百足屋に投宿したのです。
百足屋に宿泊しましたが、新島襄が海水浴をしたのかどうかは明らかではありません。

「大磯名所案内」に掲載されている百足屋旅館と愛松園

百足屋は東海道に面して玄関があり、そこから駅のある山側にむかって細長く敷地がありました。
旅館の本館の裏手の山の麓には、別荘風の離れを数棟建てて、愛松園と名付けていました。
新島襄はこの愛松園の1棟に宿泊したのです。

結局新島襄は病状が悪化して、この愛松園で没しました。
その場所は碑のあるばしょから国道を挟んだ反対側、路地を山側に入ったちょうどこの写真のあたりと思われます。

本当の新島襄終焉はこのあたり?

ここまで書いたらおわかりの通り、現在の国道は百足屋の敷地を突っ切って、戦後の昭和30年ころまでに造られたものなのです。
新島襄が百足屋に宿泊中に病死したことは間違いないのですが、その場所は本館ではなく裏手にあった愛宕山の麓にあった愛松園なのです。
終焉の地の碑がある場所はちょうど百足屋の玄関付近にあたり、本当の終焉の地は国道を越えた反対側をいうことになるのです。

現在の照ヶ崎海岸

ただ、同志社大学の関係者が交替で新島襄の看病のために百足屋に泊まり込んでおり、その場所は玄関の真上の2階の部屋だったそうです。
だから碑のある場所は彼らが宿泊していた部屋の場所といってもよさそうです。

余談ですが、新島襄の終焉の地が碑のある場所ではないことは、後に歌にもなりました。

鈴木雅之「違う、そこじゃない」

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

【参照文献】
大越哲仁論文「新島襄と百足屋と愛松園」
「大磯町誌」
「大磯案内」
「大磯誌」
「大磯名所案内」
【画像引用】
国立国会図書館デジタルコレクション
「東海道五拾三次之内 大磯虎ヶ雨」
「民間治療法改訂3版」
「大磯海水浴富士遠景図」
「大磯名所案内」

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