慶長6年(1601)に江戸幕府によって制度化された東海道宿場制ですが、元和5年(1619)に大津から伏見までの街道が幕府によって整備され、豊臣秀吉が20年以上も前に造った大坂(現大阪)から伏見へと到る京街道と接続し、伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場が新たに指定されました。
東海道と接続して大坂までつながった京街道は幕府道中奉行の管理下に置かれました。
このため江戸から京都へと向かう「東海道五十三次」のほかに、大坂へと向かう「東海道五十七次」という呼び方ができました。
豊臣秀吉が造った京街道を、江戸幕府が管理下に置いたのはなぜでしょう?
実はよくわからないところが多いのです。
徳川家康が江戸から京都までの東海道を整備した理由は、比較的よくわかります。
もちろん、家康にその意図を直接確かめることはできないのですが、江戸時代前期に造られた絵図から推測ができるのです。
最初に幕府によって作られた東海道の絵図は、天和年間(1681~84)に作られた「東海道絵図」です。
これによると、東海道の始点は日本橋ではありません。終点も三条大橋ではありません。
始点は江戸城の大手門、終点は京都の二条城が描かれているのです。
つまり、東海道は京都にある幕府の出張所である二条城に、幕府から人を送り込むために整備されたと推測できるのです。
なぜかといえば、幕府は政策の権威付けのために朝廷から勅許を受けることが多かったからです。
幕府としては、朝廷に余計な政治的動きをしてもらいたくなかった一方で、それなりに権威として尊重していたのです。
京都に向かう東海道の目的が比較的わかりやすいのに対して、大坂に向かうために新たに付け足された東海道(京街道)についてはわかりづらいです。
豊臣秀吉が京街道として淀川沿いに道を整備したときは、意図がはっきりしていました。
秀吉の拠点である大坂城、淀城、伏見城を結んで、朝廷のある京都へと通じる道を造ることです。
目的地が京都であったことは、京街道という呼称からもわかります。
だから秀吉の整備した道の大坂側の始点は、大坂城の入口の1つである京橋でした。
ところが2代将軍秀忠の時代になり、大津宿の西から伏見へと道をつなげて整備された京街道、東海道五十七次の54番目から57番目の宿場のある道ですが、この道は大坂側の始点が、それまでの始点だった京橋を通り越して高麗橋になっているのです。
このことから、幕府が東海道から京街道へと接続して、大坂までの道を東海道に付け足した理由が、大坂城へと行くだけではなかったことがわかります。
大津から伏見への道を整備した理由については、ある程度推察できます。
まずは参勤交代の大名たちが京都の朝廷にむやみに接触するのを防ぐためという理由が考えられます。
西国の大名たちは大坂まで船で来て、その後東海道を通って江戸まで行くことが多かったのです。
幕府は参勤交代には東海道を使用するように大名たちに通達を出していて、それ以外の道を通る場合は事前の許可を必要としていました。
この江戸との往復の途上で、幕府も初期のころは大坂から京都へと大名たちが向かうことを警戒していたようです。
ただし、大坂から東海道に入ろうとすると、京街道を使って伏見に出た後、竹田街道または伏見街道を使って京都に行き、それから東海道で大津へ行くのは遠回りです。
大名たちだって、江戸出府に日限がある参勤交代では先を急いだはずです。
しかし後に幕府は大名たちが京都へ行くことを、あまり警戒しなくなります。
西国の大名たちも、日限のない参勤交代の帰り道では京都見物などをしています。
大名ともあろうものが、京都まで行って観光だけで帰ってくるはずがありません。
懇意の公家や朝廷に、ちゃんと付け届けと挨拶をしていました。
だから江戸幕府が京街道を東海道に付け足した理由は、朝廷と大名たちとの接触を防ぐというよりも、大名たちに江戸へ向かいやすい道を提供し、スムーズな参勤交代を実現するためだったと考えられます。
一方で、高麗橋が大坂側の東海道の始点(江戸側から見ると終点)になった理由は分かりにくいです。
大坂の湊へとつなげるのでしたら、スムーズな参勤交代の目的にも合致します。
ところが東海道から高麗橋を渡った先は「船場」と呼ばれる商家が立ち並ぶ町でした。
※国会図書館さん、お願いですからど真ん中に蔵書印を押すのはやめてください・・・
湊から東海道の大坂側の始点である高麗橋は離れています。
上記のスムーズな参勤交代の目的とは矛盾してしまいます。
大坂にも西日本の天領から米を集める幕府の米蔵があったので、これが目的では? とも思ったのですが、米蔵は大坂城の中に設けられていました。
東海道は大坂城の前を通り過ぎていますから、米蔵が目的ではなかったことになります。
中之島には米相場がありました。
もしかしたら米相場を幕府が重視して大坂までの東海道を伸ばしたのかも知れませんが、それならせっかく近くまで来たのに中之島のすぐ南の高麗橋を大坂側の始点にしたのは腑に落ちません。
ちなみに上の浮世絵で高麗橋の先に描かれているのは「櫓屋敷」と呼ばれる商家です。
商家の上に城のような櫓がある建物は珍しく、「浪花市中の奇観」と呼ばれていたそうです。
嘉永4年(1851)には右の櫓屋敷が呉服店の恵比寿屋八郎左衛門、左が鏡と煙管を商う平野屋七郎兵衛だったそうです。
恵比寿屋といえば、現在の東京の銀座にあたる尾張町にも店を出していた呉服商です。
はたして高麗橋が大坂側の東海道の始点となったのはなぜか?
上に書いたような理由をすべてまとめて大坂まで東海道をつなげたのか?
それとも別の目的があったのか?
これからの調査の課題となりそうです。
→東海道五十七次(1)五十三次ならぬ五十七次とは、いったい何?
→東海道五十七次(2)大阪へと向かう東海道の「つづき」の成立ち
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 日帰りであるく東海道 第2期 保土ケ谷宿~藤沢宿月に1回、日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月12日 生麦~保土ケ谷宿【受付終了】
11月9日 保土ケ谷宿~戸塚宿
12月14日 戸塚宿~藤沢宿
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第3期 茅ヶ崎~国府津月に1回、日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
10月18日9:00~16:30ころ【受付終了】
11月15日9:00~16:30ころ
12月20日9:00~16:30ころ
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第6期 蒲原宿~岡部宿月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月25~26日 原宿~蒲原宿【受付終了】
11月22~23日 蒲原宿~東静岡
12月27~28日 東静岡~岡部宿
参加費 各回5000円 - 日帰りであるく東海道Light 第1期 新橋~品川宿月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅。まずは体を馴らすために短めの距離からライトに始めます。
開催日時
2025年
11月5日 日本橋~新橋【受付終了】
12月3日 新橋~高輪
2026年1月7日 高輪~品川宿
参加費 各回3000円 - 日帰りであるく東海道 第1期 蒲田~生麦月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
10月4日 日本橋~品川宿【受付終了】
11月1日 品川宿~蒲田【受付終了】
12月6日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第11期 石山~三条大橋月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅 最終章
開催日時
2025年
9月27~28日 土山宿~石部宿【受付終了】
11月1~2日 石部宿~石山【受付終了】
12月6~7日 石山~三条大橋
参加費 各回6500円
最新のブログ記事
- 和中散本舗 大森や梅屋敷で売られていた道中薬大森と蒲田には「和中散」という薬を売る店がありました。この和中散は、石部宿と草津宿の間で造られていた薬です。製造していた店は今も残っています。
- 東海道五十三次の旅 富士絶景ベスト3東海道五十三次の歩き旅では、特に静岡県東部を中心に富士山がよく見えます。これまでの旅の中で撮影した富士山の写真から、ベスト3を選びました。
- 蔦重と京伝の処罰 北町奉行所はどこにあった?大河ドラマ「べらぼう」第39回では蔦屋重三郎と山東京伝が処罰をされる場面が出てきました。このとき2人が拘束された小伝馬町の牢屋敷と北町奉行所はどこにあったのでしょう?
- 水口藩傍示石 領界標がリサイクルされた先とは?江戸時代には各大名家は自分の藩の領地の外れに領界標を建てていました。水口藩も東海道沿いに石製の領界標、傍示石を建てていました。その傍示石があるところでリサイクルされているのです。
- 歌川広重の「石部宿」 モデルとなった茶屋はどこ?東海道の石部宿に行くと、歌川広重が浮世絵に描いたのとよく似た建物が建てられています。でも、広重の浮世絵の舞台となった場所は実は・・・



















