江戸時代に東海道の宿場だった大磯は、日本の海水浴発祥の地といわれています。
陸軍軍医総監だった松本順が、退官して開いたのが海水浴場を開いたのが大磯なのです。

松本順 「民間治療法改訂3版」より

照ヶ崎の海岸にあるポートハウス照ヶ崎の前に立っている「松本先生謝恩の碑」、これは東海道宿場制がなくなって廃れた大磯の町が、海水浴場ができたおかげで再び賑わったことから松本順を称えて建てられたものなのです。
ちなみに題字は後に総理大臣を務める犬養毅が書いています。

松本先生謝恩碑

松本が著した「海水浴法概説」には海水浴の健康上の効能について
第一 体質を善良にし栄養を壮盛ならしむ
第二 新陳代謝及び分泌機能を催進せしむ
第三 諸般の衰弱現象を快復せしむ
第四 貧血症状を痊癒せしむ
第五 皮膚及び粘膜を強厚ならしむ
第六 消化機能を鼓舞整理せしむ
第七 神経及び精神的諸病を調整せしむ
と説かれています。・

「海水浴法概説」に書かれた海水浴の効能

松本順が提唱した海水浴は今のようなレジャーではなく、病気を治して体を丈夫にするための療養法海でした。
そのため上記の海水浴法概説には要約すると「夏季の気温22度から28度のときにする」「海水浴は体操の効能がある」「波が全身を揺らし、按摩する」「日光にあたって遊泳する」「これらは衛生上の要点である」「まずは1回30分までとして12時間の間に2回から始め、徐々に回数を増やす」などと書かれています。

そのため、当初の海水浴は泳ぐことよりも海で波に当たることが重視され、海底に杭を打ち込んで、それに捕まって波に揺られるものでした。

小国政「大磯海水浴富士遠景図」

松本順は最初は小田原に海水浴場を開こうとしました。
ところが地元の有力者たちの理解を得ることができず、あきらめて東京に帰る途中、大磯で開業していた門弟の鈴木柳斎から大磯の海が海水浴に適していることを聞きました。
そこで大磯に海水浴場を開くことを画策したのです。

ところがやはり大磯の多くの人々からも支持は得られず、宮代謙吉(後に第5代大磯町長)ら少数の賛同者とともに海水浴場を開いたのです。

この海水浴はヒットし、大磯には多くの海水浴客が療養のために訪れました。
これによって宿場時代以来の賑わいを取り戻した大磯では、松本順に家を贈っています。
松本順もこれによって大磯に転居しました。

さらに大磯には海水浴客を対象にした療養用の旅館がたくさん建ちました。

「大磯誌」に掲載された海水浴客用の旅館

宮代謙吉も療養旅館「百足屋」を建てましたし、松本順も海水浴場に面した場所に旅館「禱竜館」を建てています。

→新島襄終焉の地

祷龍館跡地は現在は駐車場

この旅館を建てるために松本順は、せっかく大磯の人たちからもらった家を売り、もっと山に入ったところに自宅を買い直しています。

海水浴場があった場所は、照ヶ崎を挟んだ東西両側でした。
浜辺には海水茶屋・掛茶屋と呼ばれる現在で言うところの海の家が並び、たいへんな活況を呈したそうです。
また、当時の海水浴場は風紀上の理由から男女混浴が禁じられ、男性用の場所と女性用の場所が指定されていたのですが右、なかなか守られないものですから、ついには海中に柵が設けられたそうです。

昭和初期の大磯海水浴場
国土地理院旧版地図より

いまでは海水浴場だった一部は、大磯漁港となっています。

そして現在の大磯海水浴場は、このような様子です。
秋に撮影したものですが、夏にはたくさんの人が訪れます。

  

なお、下の写真の遠くに写っている山は、東海道を歩いてこれから越える箱根山です。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

【画像出典】
国立国会図書館デジタルコレクション

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