東海道を京都方面に向かって歩き国府津駅前を過ぎると、左手の小道の奥に石造りの建築物が見えてきます。

小道の奥の建造物

(お勧め道遠景)

これは御勧堂といいます。
ちかくにある真楽寺の境外堂です。

国府津には親鸞聖人の伝承が残っています。
この御勧堂も親鸞聖人ゆかりの地とされています。

御勧堂

親鸞聖人は中級程度の公家の家の出身です。
子供のころに出家して比叡山に入りました。
そして学問と仏道修行に励むのですが、自身の性欲の強さにいつも悩んでいたと伝わっています。
そんなときに出会ったのが、同じ比叡山で「専修念仏」という修行法を実践していた源空上人でした。

すべてを阿弥陀仏に委ね、一心に「南無阿弥陀仏」を唱えるという源空上人の教えに親鸞は心を救われ、彼に弟子入りをしました。
この源空上人こそが、後に浄土宗の開祖とされ、一般的には法然と呼ばれる上人です。

ところが源空上人とその弟子たちに災難が降りかかります。
源空上人のイケメンの弟子2人が、後鳥羽上皇のお気に入りの女房2人を魅了し、出家させてしまったのです。
これに激怒した上皇は、この弟子2人を死罪にし、源空上人とおもだった弟子たちを流罪にしてしまいました。

結果から言えば、源空上人と親鸞聖人はこれが今生の別れとなってしまいます。

越後に流された親鸞聖人は強制的に還俗させられ、俗人として修行に励むことになります。
4年後に流罪は赦免されるのですが、親鸞は京都へは戻らず笠間(現在の茨城県)で非僧非俗、つまり僧侶でもない、俗人でもないという立場で布教活動を行います。

親鸞聖人はこの中で源空聖人の専修念仏の教えをさらに深化させた独自の宗教理論を打ち立てたようなのですが、親鸞聖人については分からないところも多く、それが越後のことなのか、笠間でのことなのかはよくわかりません。

60歳ころ、親鸞聖人は京都に帰ったといわれています。
その途中で7年にわたって滞在したと伝わるのが国府津の真楽寺なのです。

真楽寺

親鸞聖人は浜辺に柱と屋根だけの四阿を築いて、ここで布教活動を行ったそうです。
それが御勧堂です。

御勧堂

現在御勧堂は石造りですが、これは後世に信者の人たちが造ったものです。
最初は壁もないところで布教活動をしていたといわれています。
ここでの親鸞聖人の説法を聞いて感動し、伊東祐光という武士が出家しました。
それが花水川の西にある善福寺を開いた了源上人といわれています。
→善福寺 ボコボコ穴があいた岩山のある浄土真宗のお寺

親鸞聖人の像は、今も浄土真宗系の寺院でよく見かけますが、普通に僧侶の姿をしています。
ただ、彼は非僧非俗を称していたため、髪も剃っていなかったという説もあります。
今でも浄土真宗系の宗派では有髪の僧侶が多いそうです。

上記善福寺の親鸞聖人像

結局親鸞聖人は国府津を発ち、京都に帰りました。
帰った理由は判然としないのですが、晩年を悟った聖人が生まれ育った京都で死のうと思ったのかも知れません。

ただし本人も知らなかったことですが、このときの親鸞は晩年でもなんでもなかったのです。
なぜならば親鸞聖人は非常に長寿だった人で、この後さらに30年も生き、90歳で没しているからです。

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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