東海道34番目の宿場、吉田宿を出て豊川を渡り、さらに豊川放水路を過ぎて進むと、右手に菟足神社の鳥居が見えてきます。

菟足神社

菟足神社は創建年が不明の古い神社です。
ただ、平安時代後期に成立したとされる「今昔物語集」や、鎌倉時代前期に成立したとされる「宇治拾遺物語」に、兎足神社の祭の話が出てきますので、それ以前から神社があることは間違いありません。
これだけ古い神社ですから、いろいろな伝説がここには伝わっています。

 

1 子だが橋

現在ニチレイの工場がある場所に、小さな川とそこに架かる橋があります。
この橋の名前が子だが橋で、橋の上に碑と伝説に関する説明板があります。

子だが橋の碑と説明板

いつの時代の話かわかりませんが、かつては兎足神社の祭礼である「風祭」のとき、人身御供の習慣があったのだそうです。
当日の朝、最初に、あるいは3番目にこの橋を渡った旅の児女を捕らえ、兎足神社の神へ生贄にしたそうです。

ある年の祭の日、生贄を捕らえる担当の男が橋を渡った女を捕らえてみると、奉公先から帰ってきた自分の娘だったそうです。
それでも「子だが仕方ない」と生贄にしてしまいました。
それで橋の名前が「子だが橋」となったと伝わっています。
→子だが橋

 

2 大江定基出家

大江定基は平安時代に三河国の国司だった貴族ですが、任期途中で出家してしまい、寂照と名乗る僧となった人物です。
「今昔物語集」「宇治拾遺物語」に出家の逸話があるばかりでなく、「新古今和歌集」にも歌が収録されていますので、実在の人物で間違いないようです。

この大江定基が出家する一因となったのは、やはり兎足神社の風祭だそうです。
ただしこのときの生贄は人身御供ではなく、イノシシだったそうです。

大江定基

イノシシを生きたまま解体して生贄にする様子を見てショックを受け、大江定基は任期途中で京都に帰り、出家して寂照になってしまったのです。

実在の人物ではありますが、出家の経緯については伝説の域を出るものではありません。

 

3 徐福

徐福は中国の秦の時代に、始皇帝を騙して財宝をせしめたとされるいわば詐欺師です。
中国を統一し、中国初の皇帝となり、権力も富も手に入れた始皇帝は、最後の希望として不老不死を望むようになりました。

そこへ徐福は「東方の海に浮かぶ島に、不老不死の薬があります。私に探しに行くための船と財宝と、若者たちと職人たちを預けてください。不老不死の薬を持って帰ります」と始皇帝に申し出、要望どおりのものを手に入れて船出をした話が「史記」に載っています。

「史記」中国最古の歴史書と言われていますが、著者の司馬遷が生きていた時代のことはともかく、前時代のことは各地の伝承を集めて編纂したらしいので、内容のほとんどは伝説・伝承といってもよいでしょう。

その徐福は秦から船出したまま、最終的には帰ってこなかったのですが、徐福が熊野に漂着して、連れてきた大勢の若者たちが日本人の先祖となり、職人たちが文化を伝えたという伝説が日本各地にあります。

兎足神社のある小坂井にもこの徐福伝説があり、徐福の子孫が熊野から船でやってきて、西江川(現在の豊川放水路)の河口付近で上陸して住み着き、秦姓を名乗り菟足神社を建てたという話が伝わっています。

菟足神社社殿
「日帰りであるく東海道」より

ただしこの伝説に関してはほとんどが口承らしく、わずかに江戸時代後期に編纂された「牛窪記」にその話が出ているだけです。
少なくとも江戸時代後期には、すでに菟足神社の徐福伝説ができあがっていたのでしょう。

こんなたくさんの伝説のある兎足神社ですが、ここには古い伝説からは想像もつかないような楽しみ方があるのです!
→つづく

   

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

【参照文献】
「小坂井町誌」
「豊橋百科事典」
「日本に生きる徐福の伝承」
「徐福渡来伝承をめぐる断章」
「郷土研究東三河ところどころ」
「東海道名所図会」
「今昔物語集」
「宇治拾遺物語」
「古事記」
「三河吉田領風俗」
「山家樵談」
「三河国吉田名蹤綜録」
「史記 始皇帝本紀・淮南衡山列伝」
【画像出典】
「田米知佳画集」国立国会図書館デジタルコレクションより

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