金鱗堂尾張屋で発行した江戸の地図(江戸切絵図)「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」の一部です。
日本橋の魚河岸がある北側に「本小田原町」という町があります。
もうひとつ、同じ金鱗堂から発行された地図「京橋南築地鉄砲洲絵図」の築地の部分です。
ここにも「小田原」とつく町があります。
これらの町は、小田原に住んでいた石工の善右衛門が町名の由来とされています。
善右衛門(善左衛門とも)は小田原の北条氏に使えていた石工の頭でした。
北条氏の命にしたがい、箱根板橋や風祭の北方の山で石を切り出し、小田原城や小田原の町で使う石材を供給していました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条氏は滅亡しました。
北条氏の旧領は徳川家康が納めることとなりました。
徳川家康は江戸をあらたな本拠地として、町づくりに着手しました。
そのときに大量の石材が必要となり、そこで家康が目を付けたのが北条氏に使えていた善右衛門です。
北条氏の滅亡に伴い失業するところだった善右衛門は、こうして徳川家に仕えることになりました。
善右衛門は江戸の日本橋に屋敷を構え、小田原から真鶴にかけての石切り場から切り出した石を船で江戸に運び、日本橋にあった河岸(かし・荷揚場のこと)で荷揚げしました。
後に日本橋の河岸は魚市場として知られるようになりますが、善右衛門によって石材が荷揚げされていたのはそれよりも以前のことになります。
このようにして善右衛門の屋敷があり、石材の荷揚げも行われていた場所が小田原町となりました。
築地ある南小田原町は、ここでも石材の荷揚げがされていた、善右衛門が日本橋から移転した、日本橋の小田原町が火災で焼失し町ごと築地に引っ越したなどの説がありますが、いずれにしても小田原の石工頭だった善右衛門がかかわってこの地名になったとされています。
ところで善右衛門はその後どうなったのかといいますと、どうやら小田原に帰ったようです。
そして善右衛門の子孫は、今も小田原で石屋を営んでいます。
個人宅なので場所と店名は伏せますが、北条氏の滅亡によって職を失うところだったところを徳川家康によって救われたことから、善右衛門本人あるいはその子孫は、自宅の敷地内に東照宮を祀るようになりました。
今も子孫の石材店兼家屋の敷地内には東照宮が祀られています。
※個人宅の敷地内ですので、立ち入らないようにしてください。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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