「べらぼう」第10回の本編終了後、「紀行」は人形町でした。

勝川春章の描いた歌舞伎絵

ドラマに出てきた勝川春章が役者絵を得意としていたことと絡めて、人形町には芝居小屋外があったことが紹介されていました。

江戸時代後期の地図に描かれた堺町と葺屋町
©こちずライブラリ
「江戸名所図会」に描かれた堺町と葺屋町の芝居小屋街

江戸三座と呼ばれる大きな芝居小屋のうち、中村座が堺町、市村座が葺屋町、いずれも現在の人形町にあったのです。

人形町にある堺町と葺屋町の説明看板

これらの芝居小屋は天保の改革において老中水野忠邦らに潰されそうになりましたが、北町奉行の遠山景元の尽力のおかげで浅草に移転して存続することとなりました。
天保13年(1842)から14年にかけてのことです。

移転後の芝居小屋街を描いた浮世絵

ちなみに遠山景元って、いわゆる遠山の金さんのことです。

ところで、人形町が出てきたのに「紀行」では大事なものが出てきませんでした。

なにしろ人形町は

吉原遊廓発祥の地!

なのです。

吉原は明暦の大火の翌年の明暦4年(1658)に浅草郊外に移転しました。

江戸時代後期の地図に描かれた移転後の吉原
©こちずライブラリ

移転後の吉原は「新吉原」と呼ばれました。
しかし移転前の吉原を明確に描いた地図って、あまりないのです。
「寛永江戸絵図」に描かれている、これが限界かな? というところです。

「寛永江戸図」に描かれた移転前の吉原

「江戸丁」「京町」などと描かれている四角い区画が吉原遊廓です。

だから人形町周辺には、移転後も吉原の名残があります。
たとえば吉原のまん中を通っていた道が大門通。

江戸後期の地図に描かれた大門通り
復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ
現在の大門通りの表示

そしてこれが吉原を囲んでいた堀の跡。

同じく吉原の堀の跡
復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ
現在の堀の跡

吉原を築いた庄司甚右衛門の呼び名が「おやじ」だったことから親父橋。

同じく描かれた親父橋
復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ
親父橋の跡

江戸の庶民が、今日は芝居を見に行くか、それとも吉原に行くかを思案したといわれる思案橋。

同じく描かれた思案橋
復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ
思案橋の跡

現在の人形町駅のすぐ横、日本橋人形町2丁目と3丁目、日本橋富沢町のあたりが吉原発祥の地なのです。

   

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

【画像出典】
国立国会図書館デジタルコレクション

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