東海道五十三次のひとつ、三島宿内の三島広小路駅の近くに蓮馨寺というお寺があります。

蓮馨寺

鎌倉時代の正応2年(1289)に創建されたという浄土宗の古いお寺です。
聖徳太子信仰が盛んなお寺で、境内の奥の方には大正11年(1922)に建てられた聖徳太子堂があります。

聖徳太子堂

御堂の前にある聖徳太子像は、現存最古のお寺である法隆寺を建てたことから、寺院建築の神さまとして差し金を持っています。

差し金を持つ聖徳太子像

ところでこのお寺の山門を入ってすぐ右には、「芭蕉老翁墓」と刻まれた石碑があります。

「芭蕉老翁墓」と書かれた句碑

墓と書いてあるものの実際には句碑です。生前から有名人だった松尾芭蕉の句を刻んだ碑、つまりは芭蕉塚が江戸時代を中心に多く建立されていますが、その1つということになります。

そもそも「墓」には人が埋葬されているものというのは現在の考え方でして、江戸時代くらいまでは人が生きた記念碑的に、何も埋葬されていなくても墓が建てられることはよくありました。

なお、住職によるとこの「芭蕉翁墓」の石碑の下には芭蕉の遺髪が納められているという話が平成25年の「広報みしま」に掲載されていますが、昭和28年に発行された「静岡県にある芭蕉の句碑」という本には「分骨又は遺髪を埋めたのでもない」と書かれています。

芭蕉の遺髪などが埋葬されているのかどうかは謎という他ありませんが、この碑の側面には松尾芭蕉の句「いざともに 穂麦くらわん草枕」の句が刻まれていますので、句碑であることは間違いありません。

わかりにくいけど「いざともに~」の句

この句碑を建てた人は江戸時代中期から後期にかけての俳人の陶官鼠です。伊豆の内浦湾に面した三津村の出身で、沼津宿に庵を構えて活動していました。

「陶官鼠」という名前はまるで渡来人のようですが、本名は大村定八、普通の名前です。
吉原宿の俳人松木乙児に師事して俳句の腕を磨き、乙児の庵号六花庵を引き継ぎ、後には六花庵雪翁とも名乗っています。

吉原宿の北にある松木乙児の墓

また、乙児の死後は大島蓼太に師事しました。
大島蓼太の句碑も東海道沿いにあります。

大島蓼太句碑

場所は鶴見区の市場の熊野神社の境内です。
「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱」の句が刻まれています。

陶官鼠は、松尾芭蕉の顕彰活動としてあちこちに芭蕉句碑を建てた人です。
府中宿の入口にある清水寺にも「駿河路や 花橘も茶の匂ひ」の句碑がありますが、これは乙児、官鼠が一門とともに建てたものです。

清水寺の芭蕉句碑

官鼠は沼津の釈迦堂(慈光院のこと?)にも「都いでて 神も旅寝の日数哉」という句碑を建てたと、1800年代に編纂された「諸国翁墳記」という書に書いてあるそうなのですが、現在はどこにあるのかわかりません。

官鼠は晩年、乙児の庵号の六花庵を引き継ぎ、六花庵雪翁と名乗りました。
官鼠の墓は東海道沼津宿の東方寺にあります。

官鼠の墓

蓮馨寺にある句碑に刻まれた芭蕉の句ですが、「野ざらし紀行」に載っているものです。
この句が出てきた直後に熱田宿(通称宮宿)に住む林桐葉の家に泊まっているので、この句もおそらく熱田宿で詠まれたものなのでしょう。

林桐葉宅跡の蓬莱軒

林桐葉の家は熱田神宮の鳥居の前にありました。
現在はひつまぶしの蓬莱軒になっています。

特定の場所へ、街道を歩きつづけて行くのと、乗物でそこだけへ行くのとでは、経験するところや知見を得る点において大きな違いが出てきます。

東海道は東京と京都とを、東西をつないでいる道です。
これを実際に歩くことで、途中見たもの、出会ったものイメージが大きく広がるのです。

三島市にある松尾芭蕉の句碑からも、東は鶴見区、西は名古屋市熱田区まで話が広がって行きました。

もっと多くの人たちにも、これを体験してもらいたい。
その思いが東海道を案内する仕事をしている理由の一つです。

   

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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