「べらぼう」第26回には、宿屋飯盛が登場しました。
米の値段を言霊で引き下げようと、大田南畝と蔦屋重三郎が新しい本を製作しようとする場面で突然といっていい登場のしかたをしました。

宿屋飯盛ってだれなのでしょう?

天明7年(1787)に蔦屋重三郎が発行した「古今狂歌袋」という本に、宿屋飯盛の肖像が載っています。

宿屋飯盛
国立国会図書館デジタルコレクションより

まず「宿屋飯盛」という名前という名前ですが、もちろん本名ではありません。
本名は石川雅望、通称五郎兵衛、本業は小伝馬町の旅籠の主人でした。

「べらぼう」には朱楽菅江(あっけらかんこう)、元の木網(もとのもくあみ)、知恵内子(ちえのないし)、酒上不埒(さけのうえのふらち)など、フザけた名前が多数出てきますが、これらは狂名といって狂歌を詠むときのペンネームです。
こんなフザけた名前が本名のはずがありません。

石川雅望は小伝馬町で糠屋という旅籠を経営していました。
そのため狂名が「宿屋飯盛」になったとされています。

ちなみに上記の「古今狂歌袋」には、平秩東作の隣にとてもフザけた名前の人物が載っています。

門限面倒と平秩東作

館林藩士なのだそうです。こんな狂名を付けて、上役から怒られないのでしょうか?

石川雅望は博学であり、国学者・漢学者として知られていました。「雅望」というお堅い名前は学者としての名乗りだったといわれています。
日ごろは屋号と通称名で「糠屋五郎兵衛」と呼ばれていることが多かったと思われます。

客の立場になってみると、「石川雅望の宿」と「糠屋五郎兵衛の宿」ではだいぶイメージが違いますよね。
「糠屋」の方がやっぱり泊まりやすく感じます。(私見です)

さて、宿屋飯盛こと石川雅望ですが、寛政3年(1791)に江戸を追放されてしまいます。
その理由は公事宿として、訴訟人をそそのかし役人に賄賂を送ったというものでした。
公事宿とは、江戸に訴訟のために出てきた人々が宿泊する宿のことです。
糠屋のあった小伝馬町には、隣の馬喰町とともに公事宿がたくさんあったとされています。

小伝馬町は日本橋地区にあります。
蔦屋重三郎の耕書堂があった通油町とも近いところです。

小伝馬町
復刻版江戸切絵図©こちずライブラリ

江戸時代には裁判所という公的機関はありません。
訴訟はそれぞれの事柄を管轄する役所が裁定していました。

例を挙げると町人同士の争いは町奉行が裁定、寺同士の争いは寺社奉行が裁定、町人と寺との争いは町奉行と寺社奉行の評定によって決めるといった具合でした。

公事宿の主人は訴訟に精通していることが多く、あるいは公事師と呼ばれる訴訟ごとを請け負う者をかかえていたりしていました。
彼らは親族のふりをして訴訟当事者の代理人を名乗って、それぞれ裁定を下す役所で弁明を行うこともあったようです。

もちろん公平な裁定に支障をきたしますから、幕府はこれを何度も禁止します。
何度も、というのはぜんぜん禁止の効果がなかったことを意味します。

ついに幕府は寛政3年に、公事に支障をきたすような代理行為などをおこなった公事宿14軒を江戸から追放しました。
石川雅望もその中のひとりとして追放されてしまったのです。

ただし、雅望はこの罪を否定しています。
糠屋は公事宿ではないし、そもそも馬喰町、小伝馬町に公事宿が多かったのは過去の話で、今は公事で江戸に来た者は市ヶ谷辺りに宿泊しているという内容を、後に雅望は「とはずがたり」と題した追放事件の回想録に書いています。

この当時に政権を握っていたのが松平定信でしたから、幕政を批判したり揶揄したりする狂歌師を弾圧するために、公事宿の不正を理由に宿屋飯盛も追放されたというのはあり得る話です。

追放は十数年に及びましたが、文化元年(1804)ころ江戸に復帰し門弟数千人と称されるほどになったといいます。

蔵前の榧寺

天保元年(1830)、76歳で没。榧寺と呼ばれることが多い蔵前の正覚寺にお墓があります。
都の旧跡に指定されています。

   

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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