天明4年(1784)に江戸城本丸御殿内で、佐野政言が刀で田沼意知に斬りかかり、意知が重傷を負う事件が起こりました。
その事件は御殿の中のどこでどのように起きたのでしょう?
江戸城本丸御殿の見取図である「柳営図本丸」を見ながら、「営中刃傷記」の記述で事件を追ってみましょう。
なお、国立国会図書館が所蔵する「柳営図本丸」は「写し」とあり、正確性が担保できていないこと、いつの時代の江戸城本丸御殿の図かわからないこと、「営中刃傷記」は誰が何のために編纂したのかわからず、そのため内容の正確性が担保されていないことをご承知おきください。
天明4年3月24日正午ころ、田沼意知は同僚の若年寄3名とともに執務室である若年寄御用部屋を退出しました。
若年寄御用部屋はここです。
隣は老中の執務室である老中御用部屋です。
昔の部屋はふすまで仕切っただけですから、ふすまを開けると老中と若年寄は顔を合わせることになります。
大河ドラマ「べらぼう」でも、若年寄田沼意知が父である老中田沼意次たちが会議をしている席で意見を言う場面が出てきました。
ちなみに田沼意知たち若年寄は、老中たちが退出した後に御用部屋を出ています。
一方の佐野政言は新番士(将軍直属軍である新番組の隊士)です。
新番士の仕事は本丸御殿の警護です。
そのため江戸城御殿内には新番士の詰所があります。
場所は老中・若年寄の御用部屋のすぐ近くです。
田沼意知たち若年寄4人が退出するとき、見送りのためだと考えられますが、佐野政言たち新番士5人が並んでいました。
「営中刃傷記」にはその場所が記されていませんが、その後の展開から考えると新番士詰所に並んでいたのでしょう。
5人のうち、佐野政言は桔梗の間から数えて2人目でした。
佐野政言はここから走り出ると、田沼意知に「山城殿、覚えあるべし」と叫び(三度叫んだともあります)、刀を抜いて斬りかかりました。
斬りかかった場所は「中の間へ出る口」と書かれていますので、若年寄御用部屋との位置関係からすると、意知たちは奥御右筆詰所を通って中の間に行こうとして、その境目で斬りかかられたのでしょう。
このときの初太刀で肩を切られた意知は桔梗の間の方へと逃げました。
それを追った政言は「御廊下の所へ追詰」とありますので、意知が廊下まで逃れたところで追いついたようです。
「柳営本丸図」には廊下と書かれていないのですが、桔梗の間の下にある細長い部分が廊下でしょうか。
意知はこの廊下で倒れ、そこを政言は腹に刀を突き立てようとしたところ、手元が狂ったのか意知の両股に刀を突き刺してしまいました。
意知は「大ひに痿痺候」とありますから、体がしびれたように自由に動けなくなり「新御番所の方へ寄」、つまり這うようにして新御番詰所の方へ移動したと思われます。
そして廊下の暗がりに逃げ込んで倒れてしまいました。
倒れたのはこのあたりでしょうか?
江戸城御殿はとにかく広いですし、当時は電灯なんかありませんから、暗がりに倒れた田沼意知を佐野政言は見失い、中の間の方へ取って返しました。
そこへ当時70歳という高齢だった大目付松平対馬守忠郷が走ってきて、政言を取り押さえるために後ろから抱えこみきました。
中の間は幕府の要職にある人たちの部屋でした。
それらの役職の中に大目付もいます。
松平忠郷はここから走り出てきたのでしょうか?
それとも、桔梗の間と躑躅の間を隔てたところにも大目付の部屋がありますので、ここから騒ぎを聞きつけて走ってきたのでしょうか?
忠郷は政言を抱えながら「御目付衆!」と目付たちを呼びました。
目付というのは幕臣たちの監察官です。
これに応じて目付の柳生主膳正、末吉善左衛門、政部大膳が走り出てきて、柳生主膳正が佐野政言から刀を奪いました。
「営中刃傷記」には政言から刀を差し出したとも書いてあります。
その後わらわらと大勢集まってきたとありますので、政言は中の間付近で取り囲まれてしまったということでしょう。
重傷を負って廊下の暗がりで倒れていた田沼意知は「下部屋」に運ばれて奥医師たちの治療を受けた後、駕籠で神田橋門内にある田沼意次の屋敷に運ばれました。
残念ながら「下部屋」がどの部屋のことなのかわかりません。


一方の佐野政言は、先ほど走り出てきた目付の末吉善左衛門たちによって躑躅の間に連れてこられました。
その後御徒目付に引き渡されて、蘇鉄の間に連れて行かれます。
躑躅の間は桔梗の間の隣、蘇鉄の間はそこから少し離れた部屋です。


蘇鉄の間に北町奉行曲淵景漸配下の与力と同心たちがやってきて、佐野政言は小伝馬町牢屋敷の揚座敷に連れて行かれました。
揚座敷は武士を収容する監獄です。
江戸城内での事件当日の様子は以上のとおりです。
それ以降の話はまた稿を替えてお話しします。
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)
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