天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きました。
明智光秀が主君である織田信長を京都の本能寺に襲撃し、信長は自害して果てました。

その11日後の6月13日には山崎の合戦が起こりました。
羽柴秀吉と彼に味方する織田家の武将たちの軍は、信長三男の織田信孝を総大将として西国街道を西から山崎へ進撃し、明智光秀は山崎東方の勝竜寺城から出撃し、両軍は山崎で激突しました。

天王山・山崎と明智藪・胴塚跡碑(国土地理院地図に加筆)
参考として京都競馬場を入れてあります

この戦いで光秀は敗れ、いったん勝竜寺城に戻った後にわずかな供とともに京都方面へと逃げ、その途中で農民一揆による落ち武者狩りに遭って死にました。
農民たちに殺されたとも、重傷を負って自害したともいわれています。

江戸時代の芝居絵として描かれた明智光秀

落ち武者狩りの場所ははっきりしません。
公家の日記である「言経卿記」「兼見卿記」には「醍醐」と書かれていますが、奈良の多聞院の僧侶の日記である「多聞院日記」、広島藩浅野家に残されていた古文書群の浅野家文書には「山階」「山科」と書いてあります。

現場を見た人が書いたわけでもないようですので場所の特定まではできませんが、京都市伏見区と山科区の区界一帯のどこかで明智光秀は死んだようです。

現在、京都市伏見区小栗栖に明智藪と呼ばれている場所があります。
ここで落ち武者狩りに遭ったと伝えられている場所です。

山科区にある勧修寺から南に約650メートルのところには、光秀の胴体を埋めた「胴塚」と呼ばれていた場所がかつてありました。
現在では失われてしまった胴塚を伝えるために昭和45年(1970)に「明智光秀塚」と記されたの石碑が建てられました。

明智光秀の胴塚跡の石碑

落ち武者狩りによって殺されたか、重傷を負って自害をした場所に胴体だけを埋葬したという趣旨の場所のようです。

それでは首はどうなったのかといいますと、三条大橋から約800メートル東の東海道近くに明智光秀の首を埋葬したと伝わる場所があるのです。

明智光秀の首塚

こちらは石碑ではなく祠です。
しかも昭和になってからできたものではなく、江戸時代後期に編纂された「拾遺都名所図会」に載っています。

祠の横にある京都市が立てた説明板には「明智光秀の塚」として、「小来栖で襲われ自刃した光秀の首を家臣がこの地に埋葬した」という内容のことが書いてあります。

「明智光秀の塚」の説明板

つまりここが明智光秀の首の埋葬地、首塚だというのです。

もでよく読むと「伝えられている」と書かれています。
つまり伝承だというのです。

みなさん、この話、信じますか?

→「なぜ東海道沿いにある? 明智光秀の首の謎」につづく

  

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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