戦国時代を生き残った武将の多くは、徳川家に大名や旗本として仕えました。
したがってそれぞれ江戸に屋敷を持っていました。
その屋敷の跡地は、現在の東京のどこなのでしょう?
いまはどうなっていて、これまで何があったのでしょう?

藤堂高虎は、何人も仕える主君を変えて大名に上り詰めた武将として知られています。

江戸時代には、伊勢国(現在の三重県)の津に城を構えた大名となりました。
そんな藤堂高虎の屋敷は神田川の北、現在の秋葉原駅の近くにありました。

復刻版金鱗堂尾張屋板江戸切絵図より
©こちずライブラリ

藤堂高虎は、朝廷より和泉守の官位を賜っていました。
そのため藤堂家の屋敷の跡地は、現在は神田和泉町となっています。

神田和泉町の説明看板

神田川には和泉橋という橋もかかっていますが、この橋の名前も藤堂家の屋敷へと通じることが由来です。

和泉橋

藤堂家の屋敷には庭園があり、染井の植木屋・造園家で、多くの植物図鑑を編纂した伊藤伊兵衛が作庭や手入れをしていました。
それにちなんで屋敷の跡地の片隅には、当時の日本固有種の植物が植えてあります。

伊藤伊兵衛の説明板と植物たち

藤堂家の屋敷のあった場所は、神田の北のはずれにあたります。
屋敷から道路を1本へだてたところは下谷でした。

明治25年(1892)には、この道路1本へだてたところに芝居の江戸三座のひとつ、市村座が移転してきました。

大正12年の地図に描かれた和泉町と市村座

市村座はこの地で六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門といった人気役者をかかえて最盛期を迎え、二長町時代と呼ばれています。

市村座は関東大震災から一度は復興した者の、その後再び芝居小屋から火災を出して廃業してしまいました。
ところで市村座の向かいにあった神田和泉町は、関東大震災で焼け残ったところとして当時から知られていました。

関東大震災の焼失地域を塗りつぶした地図でも、和泉町とその周辺だけが塗りつぶされずに残っています。

大東京焼跡略図
「大正の大震大火災遭難百話」より

住んでいた人たちが和泉町にあった下水のポンプ所の水をくみ上げて懸命の消火をしたことと、消防隊が焼け残った和泉町を必死に守ったことによって、この地域だけ焼け残ったのです。

和泉公園には、そのときの碑があります。

和泉公園の防火守護地の碑

和泉町ポンプ所は令和5年(2023)までレンガ造りの建物が残っていたのですが、残念ながら解体されてしまいました。

解体前のポンプ所 令和3年撮影
ポンプ所跡 令和8年撮影

さまざまな歴史のあった神田和泉町、ここに藤堂高虎とその子孫の人たちの屋敷はあったのです。

 

(歩き旅応援舎代表 岡本永義)

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