東海道五十三次とは?
東海道は日本最古にして最大の幹線道路です。
「古事記」や「日本書紀」の記述から、飛鳥時代にはすでに前身となるものがあったことがうかがえます。
慶長6年(1601)、徳川家康は江戸と京都の朝廷との間で公的な使者の往復のため、東海道を整備しました。
これが東海道五十三次です。
今から400年以上前にできた東海道五十三次ですが、令和のいまも東京から京都まで、歩いて行くことができる道です。
日本橋
日本橋は日本の道路の中心です。江戸時代には幕府道中奉行が管轄する5つの街道が、現在でも7本の国道の起点となっています。
最初に架けられたのは慶長8年(1603)といわれています。
明治時代に東京市が編纂した「東京案内」には、その後に架け替えられた年が記されており、それによると現在の橋は20代目ということになります。
現在の橋は明治44年(1911)に架けられたものです。
橋の中央の日本国道路元標、橋の北詰にある東京市道路元標、橋の上の彫刻など、見どころがたくさんあります。
また、架橋から100年以上が経過しているため、これまでの時代が橋に刻まれた跡もあります。
そんな日本橋は国の重要文化財に指定されています。
この日本橋から、500キロ以上にわたる京都への旅が始まるのです。
日本橋に関するブログ記事
日本橋から京橋へ
日本橋を出発すると、江戸時代からつづく老舗の商店や、大型の商業施設がつづきます。
日本橋3丁目の交差点からは、右手に東京駅が見えます。
ここから京橋の交差点までの間は、短いのですがいろいろなものがあります。
昭和初期に建設された地下鉄銀座線が東海道の地下を通り、その地下鉄と直結した現存最後のビル・明治屋や、東京駅丸の内駅舎の設計者である辰野金吾の遺作を継承したビル・相互館110タワービルなどがあります。
日本橋から始まった東海道は、現在の国道1号・15号ですが、国道1号は最初の交差点で右へと去り、しばらくは国道15号を歩くこととなります。
道の名称は東海道のほか、第一京浜、新橋までは銀座中央通りとも呼ばれています。
そして京橋交差点にある高速道路。昭和の中ごろまでここには京橋川が流れていました。
そこに架かっていた橋が京橋です。
明治時代と大正時代に架けられた京橋の親柱が、橋の跡地周辺に置かれています。
江戸歌舞伎発祥の地や青物市場の碑もあり、広重も浮世絵に描いたこの京橋を過ぎると、銀座に入ります。
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京橋から新橋へ
銀座はいつ行っても賑やかなところです。
最近は買い物をしているインバウンドの観光客が増えました。
いまや銀座は一種のブランドですが、地名の由来は銀貨の製造所があったこと。
東海道の府中宿から、この地へと引っ越してきました。
寛政時代に人形町に移転しますが、それ以降も「銀座」の呼び名は残りました。
新橋が近い銀座は、明治以降に横浜から仕入れたものを売る店が増え、「日本橋と京橋は江戸からの老舗、銀座は明治からの老舗」といわれるようになりました。
新橋の交差点に着くと、ここにも高速道路が。
京橋同様、ここにも川があったのです。
新橋は、この川に架かっていた橋の名前でした。
大正時代の親柱の1本が、今も置かれています。
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新橋から芝へ
新橋を過ぎると、左には復元再建された新橋停車場。日本最初の鉄道駅の1つです。
その前を通る昭和通りは、関東大震災の復興事業のシンボルとして昭和初期に開かれた幹線道路です。
新橋は別名を芝口橋とも呼んでいました。新橋から先は芝という認識だったからです。
江戸時代の中期には、新橋の下を流れる汐留川を江戸城の外堀の一部として芝口門が設けられていたこともありました。
この付近の東海道には、左右に並行して細い道が設けられていました。
東海道からその細い道までが町人の居住地、細い道より先は大名屋敷などの武家屋敷だったのです。
吉良邸討ち入りから高輪の泉岳寺に向かう大石内蔵助たち赤穂浪士は、東海道と並行する細い道を通ったのですが、仙台藩の伊達家の屋敷前で仙台藩士に見とがめられ、一悶着が起こったところでもあります。
新橋駅をすぎると、東海道が環状2号線と交差します。
この付近、赤穂浪士事件がらみの話が多いです。
環状2号線を右に行った先が田村右京大夫邸跡、浅野内匠頭の切腹の地です。
それに因んだ切腹もなかを売る和菓子屋さんも、ちょっと遠いですけどあります。
ちなみに北町奉行で知られる遠山金四郎景元もこの付近に住んでいました。
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芝から三田へ
日本橋から銀座人かけての人混みもなくなり、だいぶ道が静かになりました。
芝は徳川将軍の墓所である増上寺のある場所です。
ごく一部ですが、江戸時代の練塀や門も残っています。
増上寺の前にある芝大神宮は、講談などでおなじみの「め組の喧嘩」の現場です。
JR田町駅・都営三田線三田駅の駅前まで歩いてくると、また人が多くなります。
ここを右に入ると慶応大学です。
この田町は、幕末に西郷隆盛と勝海舟が会見し、江戸城の無血開城と徳川慶喜の助命が決まったところです。
2人の会見の碑があります。
駅を過ぎると札の辻交差点、江戸時代初期の江戸の町のはずれの高札場のあったところです。
しかし江戸の町は膨張し、町がさらに広がったため、高札場はこの先の高輪に移されています。
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三田・高輪から品川宿へ
江戸時代初期の高札場のすぐ外側には、処刑場がありました。
徳川家光の時代には、ここでキリスト教の宣教師や信者が約50人も処刑されています。
この処刑場も、江戸の町が膨張したことで鈴ヶ森に移転しています。
右手のビルの間にある三田八幡神社は、「江戸名所図会」「東海道名所図会」にも挿絵が載っている神社。
境内の石垣からは泉が湧き、旅人たちの喉を潤していたそうです。
左側に大きな石垣が見えてきたら、これが高輪の大木戸の跡です。
札の辻の交差点から高札場が移転した場所です。
ここが江戸の町のはずれですので、旅人たちの送迎の場にもなっていました。
JR高輪ゲートウェイ駅の地名由来の1つともなった高輪大木戸。江戸の町が膨張をつづける中で、先ほどの札の辻が江戸の町のはずれではなくなり、あらためて江戸の町外れとして木戸が築かれた場所です。現在も左側の石垣だけが残されています。
そして右手にある泉岳寺は、浅野内匠頭と赤穂四十七士のお墓のあるお寺。大石内蔵助像もあります。
やがて品川駅に出ます。品川駅とはいうものの、ある場所は港区高輪です。品川区じゃないんです。
この品川駅、実は鉄道開業の地でもあるのです。
新橋と横浜の間で鉄道が開通する約半年前、品川と横浜間で仮営業が始まっているのです。
そして八ツ山橋を渡ると、その先が品川宿です。
平成13年(2001)には、「従是品川宿」という木製の傍示杭が復元されています。
最初の宿場、品川宿に到着です。
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- 先に乗っちゃった人々
- 高輪の泉岳寺
東海道歩き旅イベント 参加者募集中
とにかく内容が濃く詳しい、それなのに参加費がリーズナブル。
それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。
「日帰りで歩く東海道」 日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」 原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。
以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。
一緒に東海道を歩きませんか?
人生の宝となるような経験、そのためのお手伝いをいたします。
- 京都まであるく東海道 第10期 桑名宿~土山宿月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅
開催日
2025年
4月5~6日 桑名宿~四日市宿
5月17~18日 四日市宿~亀山宿
6月7~8日 亀山宿~土山宿
参加費 各回6500円 - 日帰りであるく東海道 第1期 日本橋~生麦月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
4月13日 日本橋~品川宿
5月11日 品川宿~蒲田
6月15日 蒲田~生麦
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第2期 生麦~藤沢宿月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
4月19日 生麦~保土ケ谷宿
5月24日 保土ケ谷宿~戸塚宿
6月21日 戸塚宿~藤沢宿
参加費 各回3500円 - 日帰りであるく東海道 第5期 元箱根~原宿月に1回日帰りで歩く東海道五十三次の旅
開催日時
2025年
2月22日 元箱根~山中城
3月22日 山中城~三島宿
4月26日 三島宿~原宿
参加費 各回3500円 - 京都まであるく東海道 第6期 原宿~岡部宿月に1回、一泊二日で歩く東海道五十三次の旅
開催日
2025年
10月25~26日 原宿~蒲原宿
11月22~23日 蒲原宿~東静岡
12月27~28日 東静岡~岡部宿
参加費 各回5000円