東海道五十三次とは?

東海道は日本最古にして最大の幹線道路です。
「古事記」や「日本書紀」の記述から、飛鳥時代にはすでに前身となるものがあったことがうかがえます。

慶長6年(1601)、徳川家康は江戸と京都の朝廷との間で公的な使者の往復のため、東海道を整備しました。
これが東海道五十三次です。

今から400年以上前にできた東海道五十三次ですが、令和のいまも東京から京都まで、歩いて行くことができる道です。

川崎宿

多摩川をわたったところにあるのが川崎宿です。
日本橋を出発した東海道の旅で、最初に渡る大河のほとりにあった宿場ですが、東海道の53の宿場の中で2番目に遅く成立した宿場でもあります。

歌川広重「東海道五拾三次之内 川崎六郷渡舟」

品川宿から神奈川宿までは約25キロ。(マピオンwebサイトのキョリ測で計測)
江戸時代の人たちがこの距離をどう認識していたかというと、天保14年(1843)の調査をもとにした「東海道宿村大概帳」では両宿場間の距離が約5里(品川宿から川崎宿まで2里半、川崎宿から神奈川宿まで2里半)と書いてあり、約20キロとなります。
それに対して川崎宿が成立したのと比較的近い天和年間(1681~1684)に成立したとされる「東海道絵図」では、日本橋から約2里にあたる品川宿と神奈川宿の間には大森、六郷、市場、子安の4つの一里塚が描かれており、その次の一里塚は神奈川宿の西の外れに描かれています。

「東海道絵図」に描かれた子安の一里塚
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

神奈川宿の長さが約2キロですので、品川宿から神奈川宿まで約18キロと江戸時代前期の人たちは認識していたことになります。
宿場制度の本来の目的は荷物運びです。荷物の運搬を担う伝馬人足たちにとって品川宿と神奈川宿の距離は長すぎると感じていたのでしょう。

こうして品川宿と神奈川宿の間に新たな宿場を設けることになり、他の宿場から遅れること22年、元和9年(1623)に新たに設立されたのが川崎宿です。

なにしろ洪水が起こればすべてが流される多摩川流域です。ここに宿場を新設するのは大変なことです。
最初は人があまり住んでおらず、微高地に位置する東海道沿いの村2つに伝馬が命じられました。
さらに5年後に近くの2つの村も宿場に加えられ、久根崎、砂子、新宿、小土呂の4つの村から川崎宿は成り立つこととなりました。

川崎宿設立当初に土地の開墾や用水路の整備を行ったのが幕府代官小泉次大夫、江戸時代の中期に川崎宿の財政立て直しをしたのが本陣当主の田中丘隅、この2人が川崎の恩人といえるでしょう。

そのような経緯のある川崎宿ですので人口はすくなく、江戸時代後期でも2400人しかいませんでした。
それが明治以降の工場進出などにより、現在は23万人の人が川崎市川崎区に暮らしています。

現在の川崎宿

詳しくはこちらで。川崎宿に関する記事

→川崎宿に関する記事一覧

川崎宿から鶴見へ

川崎宿を出ると一直線の道が続きます。八丁畷です。

八丁畷

東海道を9回歩いて旅した松尾芭蕉が最後の旅に出るとき、川崎宿で送別の宴を開いています。
そのときに詠んだ句を刻んだ句碑や、宿場時代に埋葬されたと考えられる人骨が近辺で見つかっているのですが、その供養塔が八丁畷には建てられています。

江戸時代の八丁畷は延々と松並木がつづく道でした。
松並木は市場村に入り人家が立ち並ぶようになるまで続いていました。

市場村には一里塚が築かれていました。だいぶ塚が摩耗していますが、今も一里塚は現存しています。

市場の一里塚

やがて川が見えてきます。鶴見川です。
鶴見川をわたると東海道の立場だった鶴見に入ります。

鶴見川橋

江戸時代の鶴見村は、杉山明神(現鶴見神社)の門前町でした。
ここに梅干しで有名だった信楽という茶屋をはじめとして、多くの茶屋が並んでいました。
現在も営業を続けている店もあります。
昭和20年代にパン屋となりましたが、京急鶴見駅前にあるエスプランはもともと鶴見立場にあった覇王樹茶屋という茶屋だった店です。

エスプランの看板商品「珈琲あんぱん」

鶴見までに関するブログ記事

鶴見から生麦へ

東海道の立場だった鶴見ですが、すぐ隣村の生麦も立場でした。
「生麦事件」で知られる生麦ですが、ここはそもそも漁村で、漁民たちが捕れた魚を東海道沿いの店で売るとともに、茶屋商売などで生計を立てていたところです。
現在も多くの鮮魚店が軒を連ねています。

生麦

ところでこの生麦、漁村でありかつ立場という特徴ある町であったことが由来と思われる多くの伝説・伝承にいろどられているのです。
塩待ち稲荷、子育て地蔵、白熊神社、小石様、亀地蔵、蛇も蚊もなど多くの物語が伝わり、それらがもとになった祭りが今も催されているのです。

亀地蔵

幕末の大事件の現場として知られる生麦ですが、むしろ生麦ではこういった地元に伝わる物語に着目していただきたいです。

生麦までのブログ記事

生麦から神奈川宿へ

誰もが知っている生麦事件の碑が、キリンビールの横浜工場の前に建てられています。

生麦事件碑

キリンビールの工場がある場所は、明治以降に造成された埋立地です。
ここから東海道の左側はほぼ埋立地、多くの工場などが並ぶ地を行くことになります。
これらの埋立地を造ったのは、「日本のセメント王」として知られる浅野総一郎です。
右手にある浅野高校の敷地内に、浅野総一郎の銅像が建っているのを歩きながら見ることができます。

浅野総一郎銅像

埋め立てられる前は、この地には子安の漁村がありました。
埋め立てと海の汚濁により漁業がつづけられなくなり、東京都は昭和46年に(1971)に全漁業者から漁業権を買い取り、かつては江戸城にも魚を納入していた子安の漁業は終焉を迎えました。

しかしその後漁業権不要の自由漁業を行う漁業者が漁業組合を結成し、現在も子安には漁港があります。
運河沿いに出ると、高速道路の横に漁船が係留されている不思議な光景を見ることができます。

子安漁港

江戸時代には麦わら細工、石部宿近くの梅の木立場で作られていた道中薬の和中散、そして現在でも売られている海苔や、海苔を使った和菓子やあべ川餅など、お土産に買うだけでなく食べ歩きも楽しめる町です。

子安から神奈川宿にかけての東海道は、国道15号です。
多くの車が行き交う中、ちょっとたいくつな街道歩きとなります。
ところでこの国道に、なぜかラーメン店・中華料理店が並んでいるのです。
さながら「ラーメン銀座」と名付けたくなるくらいです。

ところで子安から神奈川宿近辺にかけては、浦島太郎の伝説が伝わっています。
たいくつな国道15号から少し外れると、浦島太郎のお墓や浦島太郎の足洗川、足洗い井戸、浦島地蔵などがあるのです。

浦島太郎の足洗い井戸

そして街灯をよく見ると亀、歩道の車止めを見るとこれも亀。
ここは浦島太郎の町なのです。

たくさんあるラーメン店の1軒の角を曲がったところに公園があります。
この神奈川通東公園は長延寺というお寺の跡にあたります。
そして長延寺の前には江戸時代には土居が設けられており、ここから神奈川宿が始まっていたのです。

神奈川通東公園

神奈川宿入口までのブログ記事

東海道歩き旅イベント 参加者募集中

それが歩き旅応援舎の東海道歩き旅イベントです。

「日帰りで歩く東海道」  日本橋~原宿を日帰りで歩きます。全15回
「京都まで歩く東海道」  原宿~三条大橋を一泊二日で歩きます。全18回
それぞれ月に1回ずつ歩いて、東京の日本橋から京都の三条大橋をめざすイベントです。

以下のイベントが参加者募集中です。途中からでもご参加いただけます。
このブログには書いていないことが、実際の東海道にはいっぱいあります。
もっとくわしくお話をしながらガイドがご案内いたします。

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