今年の大河ドラマは「どうする家康」。私も生まれて初めて大河ドラマ館に行きましたが、今年は岡崎が熱いですね!
岡崎は徳川家康の出生地であり、江戸時代には東海道の宿場の1つである岡崎宿が置かれた場所でもあります。
この岡崎宿の道は、何度も曲折を繰り返し、そのため「岡崎二十七曲がり」と呼ばれています。
今は曲がり角にこのような表示が立てられてますので、どこで曲がればよいのかわかるようになっています。
ただ気をつけなくてはいけないのは、江戸時代とは道の形が変わっているところがありますので、それにしたがって表示も江戸時代の二十七曲がりとは別の場所に立っていることがあることです。
ところでこの二十七曲がり、なんでこんな面倒くさい道になっているのかというと、岡崎は城下町なので、防衛目的から町の中をまっすぐに進めないようにわざと曲げてある、という説明がよくされています。
間違いではありません。
でも正確ともいえません。
どういうことなのかといいますと、まずはこの二十七曲がりの東海道が描かれている地図に、江戸時代の岡崎城の地図(堀の位置)を重ねてみます。
すると、堀で区切られた区画(曲輪)の形に沿って二十七曲がりが曲がっていることがわかります。二十七曲がりは、城の形に合わせて曲折を繰り返していたというのが、道が面倒くさく曲がっている正確な理由です。
この城の形は、岡崎に譜代大名である本多家が入ってからのものです。
それ以前の安土桃山時代の一時期、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が城主だったことがあります。このころ岡崎の城下が整えられ、二十七曲がりの原型ができたといわれています。
田中吉政は城の西側の湿地帯を埋め立て、町人の住む街を造りました。関ヶ原合戦後、田中吉政は筑後(福岡県)の柳川城主となり、かわって岡崎城主となった徳川家康重臣の本多康重は、この城の西側にも堀を掘って曲輪を造り、その直近を東海道が通る形に造り替えました。
西への守りを固めたのです。
徳川家(江戸幕府)に反乱を起こした大名が江戸に向かおうとしたら、西からやってくることが想定されます。
軍勢は大量の人員を送り込まなくては、有効な軍事行動がとれません。そのため原則的に東海道などの主要街道を通ります。反乱を起こした大名の軍勢も東海道を進軍することが想定されます。それが岡崎城下を通ろうとしたら、まず曲輪の直近にある岡崎城の西側を通らなくてはなりません。
岡崎城下の東海道は曲輪の形にそって敷かれているので、城方の兵は堀の内側からすぐ外を通っている軍勢を狙撃することができるのです。城を守っている大名が幕府の味方をする限り、簡単には岡崎城下を通れなくなります。
反乱を起こした側からすると、矢玉の降り注ぐ岡崎城下を無理矢理押し通るか、岡崎城を攻め落としてから岡崎を通過するしかなくなります。いずれにしても、多大な犠牲を覚悟しなくてはなりません。
城は単独で見るよりも街道と絡めて見た方が、その役割が明らかになります。
岡崎二十七曲がりは城の防衛のためのみならず、西から東へと向かう軍勢を攻撃するために、曲輪の形に合わせて道が曲げられていたと考えられるのです。