東海道を西へと歩いていると、相模川に架かる馬入橋にいたる少し手前に産業道路入口の交差点があります。
この交差点で周囲をよく見ると、川の跡があります。
この川は筏川と呼ばれています。あるいは江戸時代に編さんされた「東海道分間延絵図」には「古相模川」と書かれています。
ここにはかつて今宿板橋と呼ばれる橋が架かっていました。別名を「なんどき橋」。この奇妙な名前については、次のような伝承があります。
かつて平塚宿には遊女がいました。江戸時代には宿場に遊女を置くことは禁止されていましたので、彼女たちは宿泊客に対して飯を盛る女という名目で「飯盛女」と呼ばれ、幕府の黙認のもと、宿場の旅籠で遊女として働いていました。
そんな遊女の1人が、恋をしました。相手は平塚の東にある南湖(南郷)のまじめな若者でした。
南湖とは現在の茅ヶ崎駅の近くにあった村で、江戸時代には立場のあった場所です。現在も地名として存続しています。ちなみに読み方は「なんご」です。
若者は遊女を身請けするために一生懸命働きました。ところが遊女の生活は過酷です。身請けするお金が貯まる前に、遊女は病を得て、やがて死んでしまいました。
若者は遊女の死を悲しみました。しかしどうすることもできません。諦めざるを得なかった若者は、平塚に通うこともなくなりました。
若者に身請けしてもらえるのを、また、会いに来てくれるのを楽しみにしていた遊女は、自分の死を受け入れることができませんでした。そこで幽霊となって南湖から平塚の間にある今宿板橋のたもとに現れ、若者がやってくるのを待ち続けました。
しかし、若者はやってきません。そこで遊女は待ちかねて、通りかかる人々にどのくらいの時がたったのか、尋ねるようになったのです。
それで今宿板橋は「なんどき橋」と呼ばれるようになったというのです。
怪談話とはいえ、なんとも切ない話です。
ところがこの話にはおまけがあります。
美しく若い女の幽霊が橋に出ることが噂として広まり、たくさんの男たちが幽霊を見物にやってくるようになったのです。挙げ句の果てには茶店が出るほどの盛況ぶりになったとか。
なんなんだ!
この話は?!
産業道路ができたことで、なんどき橋はなくなりました。今は毎日たくさんの車が往来する場所となっています。