当舎の東海道を歩くイベント「京都まであるく東海道」で、大津宿から三条大橋へ向かう途中にある逢坂山を越えたときの写真です。
大津から逢坂山を越え、山科を通って蹴上へて、そして京都三条大橋へ向かうわけですが、その途中にはこのように溝が彫られた石が見られます。
逢坂山の常夜灯でも
蝉丸神社でも
道ばたでも
蹴上の山沿いの石垣にも
これらは「車石」といいます。
大津から京都へと向かう牛車が通る便宜のために、東海道に敷かれていた石です。
これらの車石が、5月20日放送の「ブラタモリ」に出てきたのです。
東海道を歩いている人にはおなじみの車石ですが、一般的には知られていない存在です。そんなマニアックなものを取り上げるのは、「ブラタモリ」ならではといえるでしょう。
京都で消費される米の多くは、産地から琵琶湖沿岸に集められ、草津の湊から船で大津の湊へ運ばれて、それから牛車(うしぐるま)で東海道を京都まで運ばれていました。
その様子は浮世絵にも描かれています。
※「牛車」を「ぎっしゃ」と読むとお公家さんの乗物を指します。
実は東海道は牛車が通ることは、一部の都市部をのぞいて原則禁止されていました。
理由は道が荒れるためです。
しかし例外的に大津と京都の間は、牛車の通行が許されていたのです。
その理由がこの米の運搬なのです。
米を運ぶために東海道に敷かれた車石、大津市歴史博物館の前や日ノ岡峠では、その様子が復元されています。
番組内では「もともとは平べったい石を敷き並べた。窪みをつくったわけではなくて、自然にできたんですね」という会話がありましたが、大津市歴史博物館や東京都港区にある物流博物館によると、最初から溝が彫ってあったのか、通った車輪で摩耗して溝ができたのかは判明していないそうです。
溝の深さが石によって違うことは、計画的に溝の彫ったことよりも摩耗によって窪んだと思えますし、一方で溝の中は磨いたように平らで、そこに車輪の痕と思われる傷がある石もあり、これはもともと溝が彫ってあったようにも思えます。なんとも判断が付かないのです。
浅い窪みを彫った石を並べておいたら、車の通行によって溝が深くなったという説もあるのです。
ところで車石が並べてあったのは2列だけ。つまり1台分だけです。
それでは、対向からも牛車がやってきたら、どうやってすれ違っていたのでしょう?
答えは「時間帯で一方通行だった」です。
たとえば午前は大津から京都へ米を運ぶ車が通り、午後は米を降ろした空の車が大津に帰る、こんな感じで時間帯で分けられた一方通行だったようです。
「山科がいかに重要な場所、要衝であるかを物語る痕跡」と番組では言ってました。
ただ、私の認識では米の集積地であった大津の方がより重要な場所、より要衝です。
織田信長も、将軍足利義昭に大津に代官を置いて治めることを要求したくらい、大津は重要な地「要衝」なのです。
山科はその要衝から京都への通り道にすぎません。通り道だから大事といえば大事ですが、それだったらもっと大津を取り上げるべきでは? と思ってしまいます。
もっとも、地元の専門家まで招いて「山科」をテーマに番組を制作したですから、
山科重視!
を無理矢理でも打ち出す必要があったのでしょう。大人の事情ってやつですね。
ちなみにこの車石、実は東京でも見ることができます。
場所は目白の椿山荘。
そして高輪の物流博物館。
機会があったら是非ご覧ください。
何度も繰り返しますが、番組について否定的なことをいっぱい書いてますが、私にはNHKにケンカを売る意図はございません。受信料も払ってます。
→つづく
(歩き旅応援舎代表 岡本永義)